（※これは、タンポポ荘「パジャマパーティ！」で話し中の、怖い体験談です。）

「左側のエレベーター」（後編）

扉が閉まらないうちに、私は慌ててエレベーターの中に入りました。
しかし母子は奥を向いた姿勢のまま、マネキンのようにピクリとも動きません。
彼らに背を向けるのは不安でしたが、全員が奥を向いているのは他人が見たら変だろうと思い、私自身は扉方向を向きました。
ただし、なるべく親子から離れるようにはしていたと思います。

チラつく蛍光灯の青白い光に照らされ、７階・・・６階・・・５階と、階表示の赤いランプがゆっくり降りていきます。
それにしても背の高い女の人だな、私が158cmだから190cmくらいかな、などとぼんやり考えているうち、私は変な事に気付きました。
エレベーターの中は物音ひとつ無く静まりかえっているので、もし母子が身動きしたら音や気配ですぐわかります。
彼らは間違いなく、最初の姿勢のまま向きを変えてはいません。
それなのに、母親が私の方を凝視しているのがハッキリわかるのです。
後頭部に痛いほどの視線を感じ、右耳のすぐ後ろからわずかな息遣いも聞こえてきます。
私は、訳のわからない恐怖で完全に固まってしまいました。

想像の中の映像に、首を雑巾のように捻って私を覗き込んでいる女性の姿が浮かび上がりました。
だめだ。振り返ってはいけない。絶対に見てはいけない。
背中に嫌な汗が流れるのを感じながら、私の目は階表示ランプの上で凍りつきました。
そしてただひたすら、一瞬でも早く1階に着いて下さいと祈っていました。
何度か、制服の裾を（子供に？）引っ張られたようにも感じましたが、それは気のせいかもしれません。

信じられないほど長い時間が経ち、ようやくエレベーターは1階に着きました。
ポンという音とともに扉が開き、ギクシャクとぎこちない動きで私は外に出ました。
それと同時に、すぐ背後から母子も私の後について出る気配がしました。
今、冷静に考えれば。
例の嫌な気配が私の勘違いなら、彼らが私の後からエレベーターを出るのは当然なのです。
マンションの設備を使用している、単なるマンションの住人なのですから。
ですが、その時の私は「ヒッ！」となってしまい、反射的に振り返ってしまいました。

すぐ目の前に女性の顔がありました。
想像とは違い、彼女は首を捻ってはいませんでした。
ただ、身体を奥に向けたまま、背中の側に、上下逆さまに頭をダラリと垂らしていました。
その状態でも顔の位置は私より高く、極限まで見開いた白眼の多い目でギョロリと私を見降ろしています。
真下に垂れた髪の毛の先を、下から白い小さな手が伸びて掴んでいるのが見えました。

その後の記憶は飛び飛びなのですが。多分、私の人生で最も速く動いた瞬間だっただろうと思います。
気がつくと、マンション近くの公園で鉄棒を掴み、咳き込むように息をしながらガクガク震えていました。
手のひらと膝頭には血が滲み、持っていたはずのDVDも見当たりません。
しかし再びエレベーターに近づく勇気はなく、9階の部屋に戻るのにも階段を使うはめになりました。

その後、この出来事を両親に話そうかと何度か思いましたが、結局は切り出せませんでした。
深夜に勝手に外出した事が知れると、その件で大目玉を食らいそうだったので。
翌日からは流石に階段は使いませんでしたが、遠い右側のエレベーターだけをずっと使う事になりました。
失くしたDVDは弁償を覚悟していたのですが、何故かレンタルショップに届いていました。
店員さんが言うには、道に落ちていたのを通りすがりの人が拾って届けてくれたのだそうです。
どなたか知りませんが親切な方、ありがとう。（ただし、延滞料金はしっかり取られました。）

以上が私が中学生の時に遭遇した出来事です。
実話なので特にオチはありません。
趣味でタロット占いをしたりとオカルト寄りの私ですが、実際に霊体験（？）をしたのはこの時1回だけです。
この時以来エレベーターが苦手になり、特に一人の時は階段を使うようになってしまいました。

(ある日、たんぽぽ荘にて―）

(様子を伺っている。もしも無言で先を急いでも、特に気にせず立ち去るだろう―)