真夜中、月が明るい夜。
　王城前、一揆を行う者達が休息する地。
　木々も静まりかえり、動物達も息をひそめるようにして黙して動かない。

　そんな中、妙な胸騒ぎを感じて巴は目を覚ました。
　身体を起こすと同時に近くに置いていた刀を拾い臨戦態勢を取るが、近くの敵の気配はない。
「黒妖」
　名を呼ばれたエンブリオの姿は無い。いつもは呼べば姿を現すが、その様子もない。
「黒妖……どこだ？」
　不審に思い、周囲に注意を払いながらもう一度その名を呼ぶが返事はない。

　何かが妙だ。

　近くを見ると、ルークもピィカも眠っている。この妙な感覚は、自分だけが感じたものだ。胸のざわつきがふつふつと嫌な気分を沸き起こす。
　とにかく探さなくては。黒妖の身に何かが起こったのかもしれない。念の為刀を腰に差し、物音を立てぬよう、静かにその場を離れた。
　得体の知れない不安に苛まれながらも、焦らぬように、逸らぬように慎重に暗闇の中へ歩を進める。
　普段は、“契約”という関係があるからか、漠然と黒妖の存在を感じられたし、大まかな位置を把握することもできていた。
　しかし、今はその“感じ”がほとんどない。黒妖との繋がりが薄れているような、強制的に遮断されているような。

　こっちで合っているのか？
　どうして黒妖は消えたのか？

　答えの無い問いが浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す。
　思えば、最近黒妖の様子がおかしかったようにも見えた。いつもより呆けている時が多かったし、返答にも元気が無いと感じることがあった。
　今頃になって気付いた自分を恨んだ。
　きっと黒妖は、何か私に言いたくても言えないことがあったのだ。
　それでも、何も言わずに姿を消すようなこと、一体どんなことか。
　分からないが、今は探すしかない。

　頭を振り、歩を進めているとると、突然、今までほとんど消えていた妖の気配が突然感じられた。
「……こっちか」
　歩く方向を変え、今度は確かな足取りで気配の方向へと進んでいく。
　進むにつれ、気配が強くなるのが感じられる。
　最大限の注意を払いつつ、一歩一歩と前へ進むと、開けた場所へ出た。



　そこにいたのは……。





















　純白の鱗。
　黒妖よりも二回りも大きい錦蛇のような姿。
　蜷局を巻き、時折動くその身体は月明かりに照らされ妖しく煌めく。
　巴が知っている黒妖と似ても似つかぬ外見だが、巴を見据える双眸だけは、黒妖と同じ黄金色だった。
「黒妖」
「巴……」
　名を呼ばれた白い蛇は、自身が黒妖であることを肯定するように巴の名を呼んだ。
「黒妖、その姿は一体……」
　問われた黒妖は、少し伏し目がちになる。
「うっ……」
　ズキ、と頭が痛む感覚を覚え、巴は咄嗟に頭に手を当てる。
「何だ、この感覚は……」
　頭の中をかきまぜられるような感覚。
　遠い遠い記憶がフラッシュバックする。
　思い出すのは、自分が7歳の頃、山で転落事故を起こしたあの日。
　家出をして、山に登って、そして落ちて……。
「何故今、こんなことを思い出す……」
「…………」
　自問する巴の方は見ず、黒妖はただ項垂れる。
「お前は、一体……」
　頭を抱え動揺する巴を、黒妖は意を決したように見据える。
「巴、僕はね、君に隠し事をしていたんだ」
「隠し……ごと？」
「いつか話さなきゃいけない時が来るって思ってた。僕の今までの姿は、本当の僕じゃなかった。本当の僕は、どちらかというと今の姿に近いんだ」
　いつもの黒妖の間延びした話し方とは全く違う。一言一言に重みがあるような、ゆっくりと、それでいてしっかりとした口調で話を続ける。
「本当の、黒妖？　何を、言っている……？」
　頭痛が治まらないのか、頭を押さえながら問い返す巴の呼吸は荒い。
「今から、全部伝えるよ。巴、こっちに来て僕の頭に巴の頭を当てて。そうすれば、僕と記憶を共有できる」
　少し迷うようにして思案していた巴だが、決意を固めたのか、ゆっくりと黒妖の元へと歩み寄った。

　そして、巴と黒妖の頭が触れ合った……。



　――16年前。

　巴が住んでいた村は、山に囲まれた村であった。
　その中でも最も大きく険しい山の名は、白峰山（しらみねやま）。山頂が純白であることが由来である。
　そして、その山頂には神が住んでいた。白峰神（しらみねのかみ）と呼ばれ、白い大蛇の姿をした山の守り主。
　山と共に生きる者の頂点に立ち、山を荒らす邪魔者を排除する。それが白峰神の役割であった。
　白峰神は強大な力を持ち、山で起きていること、山の状態は遍く知っていたし、害なす者への鉄槌も容易であった。

　山には、決して破ってはいけない固い掟があった。
　「人は山を無暗に穢してはならない。山の神は人に手を貸してはならない」

　巴の村の人々は神の怒りに触れぬよう、山を汚さず、山と共に生きていた。
　白峰神は、人間など意に介していなかったし、人間達に山を汚す意思が無いことも知っていた。
　故に、山から多少の資源を持っていかれようと、干渉することはなかった。
　そうして、山と人は争うことなく、深く関わりすぎることもなく、100年以上生きてきた。

　ある日のこと。

　寒い寒い冬の日であった。真夜中に、一人の少女が山へと迷い込んできた。
　珍しい出来事だった。ほんの気まぐれで、白峰神はその少女の行く末を見てみようと思い、影からその様子を伺っていた。
　こんな時間に、どこへ行くつもりだ？
　少し進んでは、転び、進んでは転びを繰り返す。何のことはない。脆弱な生き物が足掻いているだけ。
　山の中ではよくある光景。退屈なことに変わりはない。

　だがしかし、白峰神は、その愚かな少女がする行為から目が離せなかった。
　少女が、何故か笑っていたからだ。
　恐らくこの少女はもうすぐ死ぬだろう。人間とは弱く儚い。
　なのに何故、笑っている？
　山のことを全て知っている白峰神は、不可解な現象から目を離せずにいた。
　しかしそれも束の間。少女はもう息もあがり、足は傷だらけ。既に歩みを止め、体は寒さに震えている。
　――結局、意味などなかった。
　興ざめした白峰神が目にしたのは、少女が足を踏み外して転がり落ちていく姿……。
　――それで、満足なのだろう。彼女は笑っていたし、自分が関わることでもない。また、退屈な日々に戻るだけ。
　白峰神が、山頂へと戻ろうとした時。

　……たす、けて。

　誰に言った言葉か分からない。声に出していたかすらも。
　しかし、白峰神は確かに聞いた。少女の心の叫びを。

「……大丈夫、か？」
「あなた……だあれ？」

　本当に、ばかなことをしたと思う。

　気付いたら、禁忌を犯して転落した少女を救ってしまっていた。
　少女の怪我を治し、山の麓の村へと送り届けていた。その際に、自分とやりとりした時の少女の記憶を消したが、もはや大した意味を成さなかった。

　自分は、とりかえしのつかないことをしてしまった。

　小さな命が消えゆく様を、何となしに気まぐれで見ていただけの筈なのに、何故、どうして……。

　考えても答えは出ない。

　それからのことはあっという間だった。まさに崖から転げ落ちるような速度。

　白峰神は山からは受け入れられず、人間を受け入れることもできない中途半端な存在と化していた。
　白峰山には既に次の神が君臨しており、力を失った白峰神の体は小さくなり、色はみるみる内に黒くなっていった。
　――もう、この山では生きていけない。しかし、山の外で生きていくことなど考えられない。
　残された選択肢があるとすれば、自分はこの山で影となり、誰にも見つからぬよう、ひっそりと生き、そして死んでいく。
　そうして白峰神は昔の自分を捨て、息を潜め、誰からも見つけられないシェイドとなり、生きていくことを選んだ。
　次第に話すことも忘れ、言葉も上手く出てこなくなった。
　もう、生きることに希望などない。

　ただ一つ気がかりなことがあるとすれば、あの少女……。

　何故、自分はあの少女を助けてしまったのか。

　その答えを見つけるまでは、あの少女を見届けなければならない。そう決意した。
　ただし、自分の存在を少女に悟られてはいけない。
　少女のせいで自分がこんな姿になったなどと思わせたら、助けた意味さえもなくなってしまうかもしれない。
　だから、自分は文字通り影となり、影から少女を見守るだけ。それしか、できない……。

　時が過ぎ、白峰神は少女――巴と再会する。
　そして、幸か不幸か、偶然にも契約を交わしてしまった。
　巴だけが、それが16年ぶりの再会であると知らぬまま……。





　長い時が経っていたように思う。
　記憶の世界から戻ってきた頃には、巴の頭痛は治まっていた。黒妖も、気付けばいつもの黒い蛇の姿に戻っていた。
　巴が黒妖から頭を離しても、しばらく互いに口を開かなかった。
　黒妖は、巴を救ったことで白峰山での立場を無くした。つまり、黒妖が今エンブリオとしてここにいるのは、巴が原因であるということを、巴自身が最も痛感していた。
　胸を締め付けられるような感覚が、波のように幾度も押し寄せる。
　黒妖が言っていた「隠し事」というのは、このことだったのだ。このことが知られ、巴が自責の念に駆られることを案じて、あえて黙っていたのだろう。
　言葉が、出てこない。
　ただ、風だけが虚しく吹き、巴の髪を揺らしていた。　
　そんな中先に沈黙を破ったのは、黒妖の方だった。
「……巴。今、巴が何を考えてるか僕には分からない。……分からないけど、僕は巴のおかげで、今ここにこうしていられることを楽しいって思えるんだよぉ」
　いつの間にか、喋り方も元に戻っている。
　俯いていた巴が、顔を上げて黒妖を見る。
「誰にも気づかれないように、ひっそりと生きていた僕を、巴が見つけてくれたんだぁ」
　そう言って、黒妖は笑顔を見せた。
「バァーカ」
　そんな黒妖に浴びせた巴の第一声がそれだった。
「えっ？」
「黒妖お前、それで笑ってるつもりか？」
「え……え？」
　黒妖の両の眼から溢れるのは、涙。ぼろぼろと、堰を切ったように流れ出す。
「あ、あれ。おかしいなぁ」
　ぶんぶんと頭を振り、何とか涙を隠そうとするが、零れ出す粒は止まらない。
「あれ、あれぇ……？」
「……ごめんな、黒妖。私のせいで」
「ち、ちが……ともえの、せいじゃ……」
　言葉にしようにも、つっかえて上手に話せない。
「……ふふ、とんだきまぐれな神様がいたもんだ」
「う、うぅ……」
「……ばーか」
　そう言って、巴は黒妖の額のあたりに軽く唇を触れさせた。
「助けてくれて、ありがとう」
　その笑顔は、黒妖が今までに見たことのない、とても儚く、美しい笑顔だった。

　自分が、探していたもの。
　足りないと感じていたもの。
　それを、この一人の人間の女性が、与えてくれた。

　ああ、僕が求めていたものは、きっと、これなんだ……。

　巴は黒妖を優しく抱き上げた。
　黒妖は、迷子の子どもが安心した途端に泣き出すように、巴の腕の中でしばらく泣き続けた。
　ずっと、ずっと……。










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黙っている。何か耐えているようにも見える。