【-荒らの塵-メルンテーゼ・砂地へ向かう道中のあばら家にて】



人の生活臭が絶えて久しいあばら家の戸が、軋んだ音と共に開いて篭った空気を吐き出した。
普通に歩けば派手に音を立てそうな床板を、長身の忍がみしりともさせず中へと進んでゆく。
そこは斥候に出た折に立ち寄れる、またいざという時の宿代わりにも出来る場所の一つだった。
各所に幾つか、忍はそういう場を確保している。

部屋の隅、戸口の正面を避けた位置に静かに腰を下ろして鉢金を外すと、
外気に晒された額にいつもよりも強い冷たさを感じた。
即ち、いつもより多く汗をかいたという事だ。
額に当てた手に、案の定じわりと湿った感触が伝わる。
それから、常より高い体温も。


「……」


張り付く髪を煩わしげにかき上げ、懐の手拭いで額を拭う。
そのまま壁に背を預け目を閉じると、瞼の裏にすらじりじりと熱さが広がった。
病、という訳ではない。
先の戦闘の余波が、熱となって未だ残っている為だ。


薄暗い地下牢での一戦。

幾度も幾重にも毒を受けつつ鬼火を操り、刃を振るい、そしていつもの様に火蜥蜴の力を使った。
その力は行使の代償として、術者の身を焼く。
――と言っても実際に肌や肉を焼く訳ではなく、燃やされるのは術者の持つ精気、生命力なのだが。
この世界で最初に身に宿したこのエンブリオは、それらを餌に力と成して、術者へ返す技を持つ。
使いどころを間違えれば危ういものではあるが、現状において先へ進むには必要であると、忍はそう判断している。
しかしそれ故に慎重に見極めながら使い、また要所要所でのカツヱの癒しの術のお陰もあり、
これまでそう危険な状況に陥る事はなかった。

ただ今回は、喰らった毒の量がどうやら不味かったらしい。
攻撃すると同時に、体内に炎気を廻らせ解毒も行う。
身に宿る“火の蛇”の力を短時間にフル回転で駆使し、そして――

技を放つ直前。
背に刻まれた制御術式から感じたのは、それこそ火を噴く様な熱。
それから後の数瞬、意識が薄らいだ。

熱。
渦巻く炎と蛇。
“引き戻される”感覚。
龍貴の声。
討たれた敵の断末魔。

そんなものをどこか遠く、おぼろげに感じてはいたが、はっきりとは覚えていない。
再び意識が明瞭となったのは、戦いが終わり得物を収めた後の事だった。
カツヱがどうだったかはともかくとして、少なくとも龍貴の方は気付いてはいない様に思えた。
恐らく体だけは普段通り、染みついた戦いの所作を以て動いていたのだろう。


（――今回は随分と、酷使してしまったな）


己に宿るかの蛇がもし口を利けたならば、文句の一つも飛んできたであろうな――と、口の端で笑う。
結果生じた、余剰の火熱。
それがこうしてまだ、燠火の様に身の内でくすぶっているのである。
何にせよ、制御の枠を超えなかったのは幸いであった。


暫くの間、そうしてただじっと座していた忍は、やがて静かに瞼を上げた。
腰の印籠から解熱用の丸薬を取り出すと、竹筒の水で喉へ流し込む。
冷えた水が熱い口内と喉を滑り落ち、ひとつ小さな息を吐く。
熱からくる気怠さはあるものの、この程度ならば通常の動きが出来ない訳ではない。
しかし、万が一という事もある。
有事の際、その万が一で鈍った思考と動きがどの様な結果を引き起こすか。
己だけならばまだ良いが、連れがいる以上は例え万に一つでも許される事では無かった。


（…そういえば）


蓋を閉じた印籠の紐の先、ころりと小さな蜥蜴が揺れる。
地下牢での戦いの前にも、間を置かずして術を二度使っていた事をふと思い出した。
龍貴と、この朧銀の根付を寄越した青年――カサネに、それぞれ同じ術を。

あの術の効果は、術者の力量以外に互いの間にある“縁”の深さも関わってくる。
既に浅い縁とは言い難いが、会ってまだそう長くは無い二人に果たしてどの程度作用するのか計りかねた。
故に、双方念入りに術を組み上げ、それぞれ身に着けている品へと施したのだ。
その時の消耗も、多少なりと影響したのかもしれない。

――本来あれは、忍が主に対し使う術だった。主を守り、標となる為の。
特に決まりや掟という訳では無く、場合によってはその利便性から仲間同士で使用する事もあったが。
やはり主を持つ忍が真にそれを使うべき相手は、己が主のみである。

だが、その『使うべき主』も今は無く。

三人。

主ではない三人の人間に今、自分の蝶は焼き付けられている。

恩人の孫である龍貴。
主の友であった男の末裔であるカサネ。
そして、あちらの世界に置いて来てしまった幼子にも。

…あの子の蝶はこちらへ来てからというもの、繋いだ糸がふつりと切れた様に何の反応も返してはこない。
もしやここでは使えぬのかとも思ったが、
以前龍貴がはぐれた際に（印も無いままの急場の術ではあったが）変わらず使える事が分かった。
世界を隔ててしまったせいか。それとも何か、他の要因があるのか。

掌中の印籠に浮かぶ、走る火の文様――“火走紋”をじっと見遣る。

その名の元となった術師は、制御式も持たず時に世界線すら越え“蝶”を飛ばしたという。
いや、その様な人物でなくとも――
これが術に長けた師や弟の様な者だったならば、あるいはもっと上手くやれるのかもしれない。


（……情けの無い事だ）


こんな自分が。

この様な状況でこの手に幾つも抱え、果たして全て守れるのか。
守りきれるのだろうか。
かつての己の唯一つのものすら、守り抜く事が出来なかったというのに。

そも、もしも。

もしも今この瞬間にでも、元の世界に帰れるとなったのならば。
その時自分は――


――――


「………。これしきの熱で、浮かされたか」


次々と湧き出す懸念を、軽く頭を振って振り払う。
どうやら些か弱っているらしき自分に気付き、思わず苦笑が漏れた。
こんな朽ち果てかけたあばら家の下、一人で一体何をつらつらと。


（…いや、むしろ誰も居ないここでだからこそ、か）


ここへ足を向けたのも、そんな自分をどこかで自覚していたからかもしれない。


『――なるようにしか、ならない』


目の前で在るべき姿へと成り変わってみせた仙女と、かつて師事した人の同じ言葉が頭の中で重なる。
張り詰めた気を解す響きと同時に、厳しさも含んだ言葉だ、と忍は思う。
それはきっと、望むべき方向へと向かう為手を尽くし、最後まで足掻いた者だけが言える言葉だと。


（…ならば結局、足掻くしかなかろうな。成る様に、事を成す為に。
今の残滓の様な己が、どこまで足掻けるかは分からぬが――）


身を欠き地に伏し泥を啜っても、目的を果たすが犬守忍の本分なれば。


座した時同様、音も無く立ち上がる。
再び鉢金を着けたその下には、既にいつも通り心の内の見えぬ顔。
そして仲間の待つ場所へ戻るべく、忍は吹き去る風の如くその場を後にした。


先程まで確かにそこに在った熱も気配も、抱いた迷いも――
今は全て、何事も無かったかの様に掻き消えて。
静寂だけがまた、打ち棄てられたあばら家にしんと降り積もるばかりであった。

おかしーですの！おもしれーですの！ みじんこですの！

　　　　　 　　　／⌒ヽ
　　⊂二二二（　＾ω＾）二⊃
　　　　　　　　|　　　 / 　　　　 ﾌﾞｰﾝ
　　　　 　　　 （　ヽノ
　　　　　　　　 ﾉ>ノ　
　　　　 三　　レﾚ
ﾌﾞｰﾝ

何もかもが新鮮で、好奇心を刺激されるものが多すぎるらしい
いつか、特別が見つかるのだろうか

過酷な内容なのに、面白いという巳南の言葉が理解できないらしい

金貸しから芸能、果ては一揆への介入…多方面に手を出しているらしい
健全な団体といえるかは、微妙なところだった

頭を撫でられることは気に入っているようだ

忍に呼び止められ、振り返る。

巳南に龍の根付を手渡した。

ひらりひらりと、幻想的な青白い蒼炎の蝶が舞い、
根付けの上に止まり散っていった。

まじまじと不思議そうに焼け跡をみつめている。
”まじない” だ。と、忍に告げられ、去って行った。

肌身離さないように、持っていますね。
去り行く背中に言葉を足した。

（目の前に広がる素晴らしきおかずの数々！
何より恋焦がれたお米!!
お重に蓋を持ったままプルプルと愛玩犬のように震える青年は、
潤んだ眼差しで忍を見上げた）

（狼に言われてハッとした青年は、大慌てでお重を元に戻し、
深々と…それはもう深々と頭を下げた）

（背後に花でも咲きそうなくらいの喜びオーラを纏った青年を見やり、
狼はこそりと忍に近づいてくると、小声で）

（狼がおかん属性に目覚めた瞬間である）


＊


（エンブリオの力もないのに集まりだした青白い火の粉に瞠目し、
それが蝶の形を取ると、思わず感嘆の息を漏らす―が）

（熱を感じないとはいえ、炎で形作られた蝶がマフラーの端にとまった瞬間
思わずうろたえるものの、予想したような展開はなく目を瞬かせる）

（一呼吸の間、目を閉じた。
脳裏に過ぎるは先日の記憶か、更なる過去か…
マフラーに刻まれた蝶の焼印を手に、目を開ける）

（ほんの一瞬だけ、いつかのような泣きそうな顔をしたようにも見えたが
穏やかな微笑を浮かべ、礼を述べた）

（主の言葉が聞こえたのか、背後でパロロコンが音もなく崩れ落ち
狼がなにやら必死で慰めているが、背を向けている青年は全く気付いていなかった…）