古ぼけた小屋。長らく掃除されていないのか、土埃と何かの染みが、床のそこかしこに点在している。
　作業用のこれまた古い机と椅子がひとつずつ、壁に向かって置かれている以外は何も存在しなかった。

　いや、あと一つだけ――部屋の中でいっとう古びた存在であるところの――その部屋の主である老人が、椅子に座って机で何か書き物をしていた。顔をぎりぎりまで近づけ、一心不乱に我武者羅に無我夢中で、ペンが折れそうなほど力を込めて文字を刻み込んでいた。朽ちかけた壁の隙間から、冷えた外気が入り込む。
　冬は近い。老人は身を縮こませて咳き込んだ。あちこちで蠢く疼痛がますます激しくなる。……
　
　近頃の体調は、あれの量に比例して悪化するばかりだった。全てを放出しきった時が、己の終わりだと老人は考えていた。
　だからこそ急がねばならない。自分の力を行使する手段がまだ残されている内に。
　刻む、刻む。文字に己の意思を込める。紙に己の記憶を記す。

　彼を急き立てるように、隙間風が勢いを増す。びゅうびゅうと響く風の音が耳を打ち、それに混じって、

　

　どこか誰かの声が聞こえた。

　思わず老人は顔を上げかけ、寸前になってまた視線を紙に戻した。
　
　誰が、いつ、どこで、誰に向けた言葉なのかも覚えていた。
　彼女の睫毛の長さも、風が巻き上げる気流の道筋までも把握していた。

　あの時と似た風の音が聞こえたから、錯覚的に思い出したのだろうと老人は考えた。
　理由を付けたところで、過去の言葉は止まらない。



　声はあの時と同じように、彼を延々と責め続けている。
　ますます強くなった風が、声の隙間を吹き抜ける。忘れられた過去が断末魔を上げている。
　老人は、少女よりも弱くなった手で筆を握りしめた。進めなければならない。過去に囚われてはならない。
　


　声はいつしか意味を成さない音の羅列となっていく。凍える嵐が老人から力を奪う。
　あの時と同じように。彼女の瞳、釣り上がった眉の形、そしてその声、声、声――。



　そして全ての言葉は潰えた。老人は筆を取り落とし、両手を喉に押し当てている。
　彼はあらゆる感情を煮詰めた表情を浮かべていた。
　見開いた双眸から涙を垂れ流し、咳き込むたびに机によだれをまき散らす。
　否、よだれだけではなかった。しかし、それを、なんと呼べばよいのだろうか。
　彼から嗚咽と共に撒き散らされるそれを、名状する言葉がこの世界には無かったのだ。
　
「――繧?縺九＠繧?縺九＠縺ゅｋ……縺ｨ縺薙ｍ縺ｫ縺翫§縺?、＆繧薙→縺翫?縺ゅ＆繧薙′縺?∪縺励◆縲 縺翫§縺?＆繧薙?繧?∪縺ｸ縺励?！　縺九ｊ縺ｫ縲?縺翫、」
　
　けして無意味な言葉の羅列などではなかった。
　言葉には音が必要だ。それはこの世の何よりも静かな何かだった。
　ただ、何かが、彼の身体から消失していく。

　ごとり。

「――――ぁ、う」
　
　男は喉をより一層強く押さえ、何かを確かめるように掠れた声を上げた。
　すきま風にかき消されながらも、焦りを隠しきれない浅い音を何度も吐き出す。
　それを確認すると、幾度か深呼吸をすると、彼は落ち着きを取り戻した。
　
　机の上に落ちたものを見ると、いつものように拳大の赤いそれが机と紙を汚していた。
　新鮮な赤い血に塗れたその塊は、よく観察すると血で濡れ光るだけでなく元々光沢を持つ石……宝石であった。
　彼の表情からは、その宝石への感情は読み取れない。彼自身も分からなかった。ただ、空白だけがあった。

　しばし宝石を見つめた後、彼は薄汚れた麻袋を椅子の下から取り出し、宝石をそのまま放り込んだ。
　澄んだ硬質音が部屋に響く。老人は出した時と同じく、袋をじゃらじゃら言わせながら元の位置へ戻す。
　そして汚れた紙を机から手に取ると、大事そうに服の中へと仕舞いこんだ。

　そして何事もなかったかの如く紙を取り出し、筆を走らせた。

　物語を完遂するために。
　全ての言葉が亡くなるまでに。





　
　

　青年は物語を書き記すことを趣味としていた。
　他人に見せることが目的ではなく、己のちっぽけな何かを満足させるためだけの代物であった。
　畢竟、これはやらなければないことではなかった。
　だから割とサボった。時間がなかったり思いつかなかったりそもそも戦闘台詞が面倒臭ささささささささささささささささささささささささささささささささささささささささささささささささささささささささささささささささささささささささささささささささ――――――――……。