フロレンスという名を、一体誰が付けたのだろう。

　それは、彼が育った孤児院の長だったのかもしれないし、時折住処へ訪れる牧師であったのかもしれない。もしくは、彼が捨てられていた時に纏っていた産着に、歪んだ刺繍で記してあった事も考えられる。

　リリーアンというのは、酷く年季の入った小さなみすぼらしい孤児院の名前で、私が訪れた時、彼はそのまた隅っこで縮こまって、寒さで赤くなった膝を抱えて座っていた。脚と胸の隙間に挟まれているのは、破れて皺くちゃになった薄い絵本。良い子の元に訪れるという聖夜の天使が、擦りきれた表紙の中を飛んでいる。

　伸ばしっぱなしになった髪で隠れてはいたが、その幼い顔は痣だらけで、栄養状態も万全とは言えないようだった。彼の弱弱しい眼差しが、腐れた床板の上を朧げに彷徨っている。この国は豊かで平和で美しいと、そう思い込むのは危険な事だと、知っていたつもりでも若干の動揺を私の胸にもたらした。

　私は彼の着ている襟元の緩んだ薄布と、自らの豪奢なドレスを見比べて僅かに躊躇いを感じたが、引け目を感じる事こそが、彼らに対する侮辱ではないかと思ってしまったので、傲慢で愚かな娘の表情を崩さずに立っていた。フロレンスの視線は俯いたままで、部屋の入り口へ現れた私を一度たりとも見やりはしなかったが、ただ一度の邂逅で私は全てを決めていた。もう、彼以外にはありえないと思った。私が欲しかったのは、こういう男の子だった。

「この子がいいわ」

　私の呟きを聞いて、控えていた従者がフロレンスの側へ歩み寄り、軽々と彼を持ち上げた。フロレンスは（いつもそうされていたのだろう）殴られる事を恐れて身を固くしていたが、抱えられたまま私の目の前へ連れてこられると、首を傾げて目を数度瞬かせた。ようやく人間らしい表情がその目に灯り、私は幾分か安堵した。彼が目的のための理想的な容姿である事にも、満足感があった。

「…………？」

　何が起きているのか分からない。そんな顔をしている。
　私は彼に、説明をしなくてならなかった。私の自分勝手な都合のために、この穢れない少年に罪を犯して貰わなくてはならなかった。私はこの国を、私の国へと変えるために、ただ一人の共犯者を求めていたのだ。

　孤児院を出て、別の場所で暮らさないかという私の言葉に、彼は逡巡しながらも頷く。私の裕福そうな装いが助けの一部となっていたのだろうか。それとも私自身を彼が信用してくれたのか、今となっては確かめようがない。

「そのかわり、わたくしが今から連れて行く場所で、お前にやって欲しい事があるの」

「……どんなこと？ぼくでもできる？」

「できるわ。たった一つの言葉を、繰り返すだけ」

　『――――はい、その通りです。』これだけ。この短い台詞に、数えきれないほどの罪が詰まっている。私は、私は……、彼を堕としてしまう私は、微笑みを浮かべていた。それが私にとって唯一の仮面だった。月日が流れて、この時の行為の意味を理解してしまっただろう彼が、当時の私の笑顔にどのような感想を抱いているのかは、とうとう恐ろしくて聞けなかった。

「うん！ぼく、がんばる！」

　純粋な気持ちではしゃぐ彼を見るのが辛かった。目を逸らすわけにもいかず向き合ったままでいると、フロレンスはふと思い立ったのか、頭上に疑問符を浮かべてこう言った。

「おねえちゃん、おねえちゃんは、だれ？」

　従者の咎めるような雰囲気を片手で制する。彼は無礼なのではない。何も知らないだけだ。赤ん坊の時分に捨てられ、世間から切り離されたような生活をしていた子供が、私の顔など知る筈もないのだった。

　私はなるべく堂々として見えるように背筋を伸ばした。ここにいるのは、ただにこやかに笑っていればいいお飾りの人形ではない。もちろん、卑怯にも嘘の証人を立てて邪魔者を追いつめる姑息な女でもない。私は彼の好きな物語の中に住む、誇り高い少女に……今だけは、なる。

「わたくしの名はエメラ。エメラ・ルピナス・エヴァローズ」

太陽と星の配置、その配置から凡その標を割り出し。
今立つ場所より、北東と思しき場所へと視線を向けた。

そこまで語ると、ふと視線を落として。