「フラウ。ごめんな」
　男は青竹色の帽子を被り直す。
　さも「申し訳ないです」と言いたげな表情をしているが、妾には解っている。
「どうせ口ばかりであろうに。主は妙な事を言うのだな」
「そんな事ないさ。僕はココロから――」

「ならば」
　男の言葉を遮り、続ける。
「ならば少しでも、主は自分の行動を、改める気が有るのか？」
　返答は、無かった。



　王城内部に有る兵舎へと続く、薄暗い廊下。足音が響く。
　妾は歩を進めながら、先程別れを告げた男――ダンテック・ノエルのことを、考えていた。

「…………」
　あの男は、変な奴だった。
　　　　　　　　　　 フラウ
　長年生きてきた精霊である妾だが、あのような歪み方をした男は見たことがない。
「莫迦な男だ」
　そんな言葉が、思わず漏れ出る。

「ほーんと。バカな男」
　ぼんやりとした闇の中から、粘着くような女の声。
「兵舎まで行く手間が省けたの」
「ふふ、余計なお世話でもしてくれに来たのぉ……？」
　艶やかなブロンドに、肩にかかった紫色の蛇。淫靡な肢体は見る者を魅了する色を放っているが、その表情は生気を喪ったようなものであった。

「リリス。ノエルから伝言であるぞ」
「聞きたくないわ。今は何も」
「聞け」
「嫌よ。私を置いて、仕事に行っちゃうような人……」

　子供のようにそっぽを向くリリスに対し、溜息が漏れる。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　ルシファー
　リリスと言えば、悪名を欲しいままにしている堕天使の妻として知られる種族であろうに。それもこの女は――

「本物のリリス様ともあろうものが、そのような体たらく。無様さに腸が煮えくり返る所だの」
　リリスが、僅かにその躰を震わせた。
「確かに、煮えくり返っているみたいね」
「すまん」
　雪女としての性質を持つ妾は、怒りと共に気温を下げてしまう。
　気が付かぬ内、壁には霜がかかっていた。

「……頭が冷えたわ。教えて、ノエルは何と言っていたの？」
　蛇の頭を指先で弄びながらそう言うリリス。


「帰って来たら、お前を殺すと言っていた」


　　　　　†

　僕は切り裂いたフラウの頭蓋を掴むと、首筋に噛み付いていた。
　喉を伝う血液はあまりにも冷たく、却って熱量を感じるほどだった。

　――頭痛。「飲みたい」と思った血液に口を付けていると、決まってこの痛みが脳裏に走る。
　この痛みは、フラウの記憶が流れ込んでいる証拠なのだろうか。

　今回の記憶は、どのようなものなのだろうか。

　　　　　†

　安堵の息を漏らす。リリスはあの様子なら、自分なりに納得するであろう。
　寧ろ妾の方が、未だ気持ちの整理など出来てはいないくらいで。
「まあ、水辺に戻って、思考を整理し直すかのぉ」


「――待てよ。折角来たんだ、茶でも飲んでけよ、なァ？」

「……ラケルトか」
　鎧に身を包んだ大男。一見すると無骨な戦士のようにも感じられるが、その実態は酷く狡猾な男だ。
「よう、フラウ。色々、話が聞きたいね」
「話すことなどない」
　ラケルトは「おいおい冗談だろ」と、それこそ冗談めかした様子で言う。
「冗談などではありゃせん。妾は眠とうての。この老体、余り引き止めんで貰えぬか？」
　ラケルトを無視して、外への扉に手をかけようとしたその時――

「待てって、言わなかったか？　オレさァ。言ったよな？　言ってなかったぁ？」
　腕を掴まれる。その力は強く、肩を捻っても動く様子はない。
「……最近の若い者は、なっとらんの」


　　　　　†

　カップから、煙。
「王は既に気が付いている。今回の一揆に、イレギュラーが混じっている事をな」
「じゃろうな」
　ラケルトは角砂糖を3つ、珈琲に落とした。スプーンで無遠慮に掻き混ぜられたそれは、本来の味をすっかり蹂躙されているのだろう。
「《魔女》のベルフィは、既に動いているようだ」
「冗談であろ？　そんな事が起きれば、これは最早一揆ではなくなる」
　　　　　　　　　　　　　　　　　　サタン
「森の奥じゃ、研究所の奴らが悪魔を創ったらしい。“そういう事”なんだよ」
　――ぱき。
　思わず、コーヒーカップの取ってを凍らせ、折ってしまう。

　サタンとは即ちルシファーであり、実験とは即ち、ルシファーの因子から人工的な養殖を行うということのはずだ。
　思い起こさせるのは、リリスの事。
「リリスも、研究所に狙われているのか？」
　　　　　　　　　　　パ　ロ　ロ　コ　ン
「さぁね？　水辺の堕天使もどきなんかは、どうやら乱獲されているらしいが」
「…………」
　固唾を飲む。
　パロロコンが捕獲されているということは、当然リリスにもその手は及ぶだろう。
「安心しなぁ。オレらがいるからには、兵舎の先には寄らせん。こっちとしても、厄介な話だしなぁ……」
「……そうか」
　カップの底に手を当て、冷え切った珈琲を口にする。冷めても尚風味を損なわぬその味に、少しだけ感嘆。
　　　　　　　　　　　 ノエル
「で。そっちの――小僧はどうなった？」
「妾に聞くのか？　予定通りだよ。化物を殺しに行った」
　するとラケルトは、一瞬だけ眉を顰めると「そうか」とだけ答えた。

ミラルカの話に、小首を傾げる。数秒、その容姿を見て、また小首を傾げた。

右手の指先を宙に据えると、すいと文字を書き出した。
――文箭――とだけ。
黒い線を残し、宙に留まっている。

あなたの前から冒涜な気配が生じる。
そこから生まれるように、１人の少女が躍り出た。

冒涜的な少女はそうまくしたてた。どうやら害意は無い様だが。