昔はきっと、もっとやりたいことがあった。夢があった。
　ほとんど神隠しみたいに日本から離れて生活するようになって、帰ったときにはもう私の居場所なんてどこにも残ってないんじゃないかなって心配することもあったんだよね。
　でも、もうそんな心配はしなくなった。
　日本から離れてどのくらい経ったのか、数えることもなくなったし、夢も、やりたかったことも、もうとっくに諦めた。
　流されるようにして日々を生きていると、次第に、時間も、ここがどこなのかも曖昧になってくる。いろいろな世界を旅したような気もするし、地続きのどこかをほんの少しだけ移動しながら生きてきたような気もする。
　そうやって流されているうちに、私は今、この場所で出会ったお人形君と一緒に、訳もわからず一揆に巻き込まれている。

　時間も、場所も、はっきりとしない。
　私は流されているだけだ。

　あれはいつだったか。
　
　森に入ってすぐに、休憩しようということになった。
　まだ森の深いところまで入っていないからか、顔を上げると木々の隙間から私たちの目指す王城がひっそりと建っているのが見える。大規模な一揆が起きているはずなのに、その姿は揺らがず、喧噪もここまでは聞こえてこないから、まるで日常の一風景を切り取っただけのように見えた。
　チチチ、とどこかで鳥が鳴いている。それが私の知っている地球にも居た鳥の鳴き声なのか、それともこの世界に特有の（もしかしたら鳥ではない何かの）鳴き声なのか判別は付かない。ただ、森の中の風景も、音も、どこに行ったってそんな変わりはしないというその事実にはちょっとだけほっとした。
　たまたま行き会った同行者のスラッグマンさんがしきりに岩を転がすような音を鳴らしながら、グランさんの裾を引っ張っていた。何を言っているのかはわからなかったけれど、その姿から急いているのだけは伝わった。
　もう休憩は十分でしょう？　そう言いたいのだろう。
　スラッグマンさんは、てるてる坊主が真っ白なレインコートを来て浮いているような格好をしている。日本を離れてすぐなら驚いて恐がったりしたところだけど、私はめっきり人間以外の生物にもなれてしまっていた。
　裾を引っ張られているグランさんは、私と同じ人間だ。えーと、もしこの世界の人間が、地球の人間とは違う内蔵とか生態をしてるとかだと「同じ」というのもあまり責任は負えないのだけれど。ちょうど、初老にさしかかったくらいだろうか。一揆に参加するのは体力的にしんどそうに見えるのだけど、グランさんはぶつぶつと文句を言いながらも、温かい瞳でスラッグマンさんや他のパーティメンバーを見守っている。なんで一揆なんかに参加しているんですか？　そう聞くまでもなく、「放っておけなかったから」と返ってくるのが目に見えていた。
「少し、離れます。すぐ戻りますから」
　じゃれ合う二人？　一人と一匹？　とにかくその二人にそう声をかけると、二人は不思議そうに、おや？　と言う顔をしたけれど特別何も聞いては来なかった。
　たまたま行き会って一緒に行動しているとは言っても、理由があったわけじゃない。なんとなく離れがたくて同行をしているだけだから、あまりプライバシーに踏み込むべきじゃないと思ったのかもしれない。
　どうしているかな？　とお人形君に目を向けると、お人形君はゆあさん相手に熱心に話し込んでいた。どうやら、森の動物が珍しくてしょうがないらしい。ほほえましくて、私はついくすりと笑ってしまう。友達でも仲間でもないのに、お人形君と一緒に居るのが普通になったのはいつだっただろう。あるいはもしかしたら、この同行者たちと一緒に歩くのが普通になるのも、そう遠くないのかもしれない。
「お人形君、ちょっと散歩しよっか」
　そう声をかけると、お人形君は不思議そうにしながらも、いつもの無表情で走り寄ってきた。
　そう遠くないのかもしれない。そう思っているのに、小さな息苦しさを感じるのは、なんでだろう？


　森を出て、足の赴くままに草原を歩く。
　みんなが休憩している地点はわかっているし、ここはまだお城からは遠い、兵士たちと遭遇する可能性が低いのもわかっていた。
　森の向こう、微かに霞むお城に目を向ける。こうして遠目に見るだけじゃ、とても今が内戦の最中だとは、私がそれに参加しているとは、思えなかった。私は流されてここにいるだけだ。実感なんて、沸きようもない。
　あのスラッグマンさんや、グランさん、ゆあさんには、実感があるのだろうか。
　とてもそうは見えないけれど、もしそうなら、さっさとこんな冒険なんて終わってしまえばいいと思う。あの人たちは、一揆なんかをしているより、今みたいにわいわいやっている方がずっと、自然だ。
「誰かがさっさと一揆なんて終わらせてくれればいいのにね」
「はるかさん、そればっかり」
　もう何度となくついた愚痴に、お人形君がイントネーションだけはあきれた口調でそう答えた。
「あら、ご機嫌よう。お姉さん」
　不意に声をかけられて、その声のした方向に目を向けた。
　真っ青な草原。風がそよそよと吹き抜けると、草花がそれに揺られて左右に踊った。
　視界を掠めた青いキューティクルにつられて視点を下げた。勝ち気そうな瞳、人形みたいに整った肌。舞台の子役が着るよりももっと小さな。お人形くんが着るような小さな服。
　こまっしゃくれた仕草で、４０ｃｍくらいの大きさのかわいいお人形さんが、私に会釈をしていた。
　彼女は戸惑う私に構うことなく、私の背後に回った。
　何をしているの？　と聞く必要はなかった。
『そのお人形の彼女に似た青年』が、息せき切って走ってきたからだ。
「はぁ……はぁ……。ええと、あの、すみませんが、この辺りで動く人形を見かけませんでしたか？」
　その時の気持ちを、どう表現したらいいのか。
　彼は、普通だった。
　なにひとつおかしなことなんてなかったのに、微かに手が震えた。
　風が吹いた。気にしなければ気にならないほどの、微かな風。着ていた服が押されて、背中に張り付いた。それで、暑くもないのに汗をかいているんだとわかった。
　ちょうど、さっきのお人形の女の子が眼鏡をかけて、背を私と同じくらいまで高くしたような、ごく普通の青年。
　この人も、一揆の参加者なのだろうか？
　城内で出会うからには、きっとそうなのだろう。
　柔らかな物腰からはとても想像が付かない。でも、私の出会った参加者たちだって、考えてみれば似たようなものだ。
　内心の動揺を押し隠して、私は彼とふたつみつ世間話のような会話をした。
　何を話したのか、よく覚えてはいない。
　ただ、観察するように私を覗く彼の緑の瞳だけが、どうしても忘れられなかった。
　彼の瞳には、私が映っていた。
　それがあまりにも鮮明に過ぎたから。
　私にはかえってあの瞳は何も映していないようにしか見えなかった。


「ねえ、お人形君」
「なに？」
「私、誰かがさっさと王様を倒してくれればいいなって思ってたけど」
「違うの？」
「王様を倒したら本当に幸せになれる人が、王様を倒せればいいね」


　森に戻って、みんなと合流した。
　夜、テントに寝っ転がって見上げた空にぽっかりと月が浮かんでいた。
　この世界にも、月はあるんだ。
　当たり前のことを、確認するようにつぶやいた。
　私の居たところの月は、太陽の光を反射して輝いていた。
　この世界の月は、一体どうして輝いているのだろう？
　暖かい太陽の光が、あの月にもちゃんと降り注いでいればいい。
　どうしてだか昼間見たあの緑の瞳を思い浮かべながら、私は柄にもなくそんなことを考えていた。


　その日はうまく寝付けなかった。

----------------------------------------------------------------------------------------
Eno1014さんをお借りしました。