
病院を出た一穂はK.Mを引きずり、できる限り遠くへ走った。何しろ場所が場所であり、他にナレハテになりかけてる誰かがいないとも限らなかった。
行き着いた先は橋の下の川辺だった。
「服を脱いでください」
K.Mは、病院を出てから何も言わない。けれど促されたことには従った。
一穂はジャケットをバケツ代わりにし、K.Mに水をかけてやる。
それから周囲を周って、生物の気配がないのを確認。ついでに木の枝やら捨てられた本やらを拾い上げ、持ち帰る。
裸の上にタオルを掛けられたK.Mの前で、一穂は焚き火をこさえた。
薄闇の中でぼうぼうと火が揺らめき、煙が上がる。
「……敵に、見つかっちゃうよ」
ふと、K.Mが口を開いた。
「影響力がないと……戦ってないと、ナレハテに、なっちゃうんだ、もの」
K.Mの言うことは間違いでない。こうしてゆっくりしていられるのも、いつまでだろうか……
「あなたが風邪をひいたら、敵が現れたときに支障になります。僕が警戒を続けますから、来次第逃げればいいでしょう」
一穂は淡々と告げて、それから、
「……K.M、あなたはどうなのですか」
「えっ?」
「あなたは、ナレハテ化しないのですか。戦って影響力を確保しているのですか」
一穂はうつむき、自分の手を見つめた。
もうすっかり洗い終え、乾かしているところの手を。
「……人とは戦ってない。でもきみに会うまでに何体か……」
K.Mは一穂の視線に不満を感じて、
「ああ……確か、六匹。それだけ生き物が襲ってきて、それは斃してきた」
六匹というのは、恐らくかなり少ない方なのではないかと一穂は思った。憶測だけで物事を評価することは好ましくないが、たかだか六匹で済むほどこの世界は平和な場所ではないはずだ。
足切りの基準がどの程度か全くわからないとなれば、余裕を持つに越したことはない。
「では、次に敵と出会って、戦うことになったら、あなたが殺すようにしてください」
やはり一穂は淡々と喋っていた。
K.Mは、手を見つめたままだ。すぐに言葉を返すことなどできない。
「あなたはナレハテに成ってしまうわけにはいかないはずです。ワールドスワップ・ジャック……」
「わかってるよ!」
K.Mは思わず声を荒げた。ごめんと呟き、うつむいた。
けれど、それでも彼は言葉を続けた。
「一穂……きみは殺したり殺されたりって、考えて……怖くなったりしないの? 自分が死ぬのが怖くないの?」
「怖くはありません」
「そ、そんな……!
さっきだって死にかけてしまったのに、それだって怖くないの!? 例えばさ、アビゲイルたちと戦ってた時に僕が君を見捨てたりしてても良かったっていうの!?」
「助けてくれたことには感謝しています。僕にとて殺されるべきでない理由はありますから」
殺されるべきでない……殺されたくない、ではないのか。
K.Mは、指先が冷たくなるのを感じた。
その冷たさが、彼の心にくすぶっていた疑念を掘り出して、口を動かす。
「……一穂、ひとつ聞きたい」
焚き火から目を背け、K.Mは一穂をまっすぐに見据えた。
「一穂、きみは本当にイバラシティの人なのかい?」
返事は、まだない。
「確かに、イバラシティにだって騒ぎは多いし、嫌なことだってあるけど、死ぬこと怖がってるようじゃやってられないってほどじゃないはずだよ。
それに……前に、きみに幻を見せてもらったよね。水槽に押し込められて、溺れさせられる幻を……」
一穂は、答えない。
「……正直に言ってほしいんだ!
僕もホントのことを言う……僕、迷ってるんだ、ワールドスワップ・ジャックのこと」
K.Mはすこし整理に時間をとってから、また話し出す。
「えっと、Cross+Roseでね、マッドスマイルって怖い仮面のヒトが……ああ、多分きみが倒れてる間に、言ったんだ。
ワールドスワップを起こしているのは、アダムスって女の子。その子は世界から世界へ渡り歩く力があり、しかもその時に世界に分身を残す。分身のいる世界がスワップ元になって、スワップ先は……ランダム、あてずっぽう」
一穂は外向きにはなんのサインも見せないまま、心だけで反応していた。そんな輩がいたというのか?
「……マッドスマイルは、アダムスはこの世界のどこかにいるはずだから破壊してくれって言ってた。
僕もパニクっててすぐにはわかんなかったけどさ……アダムスが生き延びれば、ワールドスワップが起きる……でもそれは、またいつかどこかで起こるってことでもある。
僕はさ……こうしてワールドスワップを利用しようとか、考えちゃったけど、こんなの、なんの罪もない世界をターゲットにしてそっくり入れ替えちゃうなんて!
ホントは、大体は不幸せなことになるだけだって、やっと想像ついたんだよ……
今回限りの、イバラシティとアンジニティの間だけのことだって思ってた。それがフタを開けたらこの始末なんだよ。
僕はとんでもないこと考えちゃったてたンだ。こんなのは、いけないよ……」
一穂はK.Mの懺悔から必要な情報だけを聞き取りつつ、己がバックグラウンドを思いやる。
自分は、よその世界から来た。戻る方法はまだ見つからない。この異能者だらけの街においてすら、世界の壁を超えるというのは一筋縄ではいかないのかもしれない。
だが、そのアダムスとやらはどうか?
無論アダムスに頼って元の世界に帰ろうという気はない。そんなことをしたら、今度は自分たちがワールドスワップに巻き込まれることになるかもしれない。
しかし現状、糸口と言えるものはそれしかないというのも確かだった。
その上で、K.Mにどう返事をすべきか……
「……ダメ、かな。一穂。僕は……うさんくさいかな?」
うさんくさいといえばそうなのかもしれない。夢見がちすぎるのが、そういう風にも取れる。
デビアンスやWSOの件なら、イバラシティの方ではもはや隠さない方針でいるのだから、K.Mにだってそうしない理由はないはずなのだ。
なのに一穂が開示をためらうのは―――K.Mの身体が、あまりにも自分に似すぎているからだ。無関係なものとは思えないほどに。
それが別世界の住人であるというところまではいい。だが、アンジニティは否定されたものたちの掃き溜めと言われる、その事実……あずかり知らぬところで己に何か重大な意味が付与されているのではないかという、その不気味さ……
形にならない異常が―――異常、などという言葉で表せるよりもっとプリミティブな、謎が―――深い霧のように一穂を覆っていた。
しかし、その霧の中でふと一穂は悟る。
「……ええ、うさんくさいですね。あなたは僕に似すぎている」
思ったままを言葉にすれば、とりあえずはいいのかもしれないと。
「そういえば、そうか……今は気にしてる場合じゃないって、思ってたけど」
「アンジニティは追放者が棄てられる世界だとあなたは言っていた。
辛いことかもしれませんが、あなたはどこから、なぜ、追い出されたのです?」
「……それが、覚えてなくて」
記憶喪失。一穂もそうだ―――自分の記憶は全てが完全なものとされているのに、イバラシティに来る前後のことだけがなぜか思い出せない。
「あ、アンジニティにいる間のことはよく覚えてるよ。
……いじめられてばっかりだった。僕みたいに馴染めない人は多くて、友だちになったりもしてくれたんだけど、襲われて散り散りになったり……殺され、ちゃったり……」
「僕がおかしいと言っておいて、あなたもそうなのですか?」
「え?」
「そんな荒廃した環境でなら、むしろあなたこそ僕のようになるのではないでしょうか。
僕は感受性や感情を抑制するように成長しました。そうでなければ、ストレスのために死亡するはずだからです」
「……それは、悲しくはないの?
嫌なことや悲しいことは……そりゃ、嫌だったり悲しかったりするよ。でも、例えば大事な人を失くしたりして、後から思い出してもなんとも思わないってのは……」
「僕にはわかりません。そのような理由で悲しくなるということがわかりません」
「そっか。
……でもさ……なんだかんだ、色々話してくれたね。
ありがと、一穂……君のことは、よく、理解できないって思うけど、それでも少し安心したような気もする」
K.Mはそう言ってさみしげに微笑んだ。
☆ ★ ☆ ★ ☆
一穂の脳裏にあったのは、あの水槽に沈められた、だいぶ後のこと。
「やあやあ、人型デビアンス博士のカール・ケンドだ。
今日から私が君の面倒を見ることになった。よろしくな、一穂くん」
目の前にいるのは、灰色のチリチリの髪に瓶底眼鏡の初老の男。気さくに話しかけてくる。
返事をしようという気は、まだ起こらない。今と比べても随分無口だったように思う。
「……さて、まあ今後の話をするわけだが、とりあえずお茶でもいかがかな」
おおい頼むと天井に声をかければ、フタが開いてロボットアームが現れ、キッチンに向かう。先進的だが、今では新しめの住宅でなら割と見られるものらしい。
すぐに、紅茶が二杯と、箱が来た。カール博士が開けると、中身は高そうなケーキだった。
「奮発してきたぞぉ、ほら、テレビで人気の神埼パティシエ監修! ……今日はちょうど、君の十二歳の誕生日だって聞いたんでね」
目立った反応はしない。
「……一穂くん。食べてくれたまえ」
手で掴む。ケーキがべっとり指につくのを舐め取る。皿にはフォークが載っていたが、当時はまだ使い方など知らなかった。
カール博士がさみしげに微笑んでいる―――それも、その時にはよくわからなかったことだった。
「……そうだな、あえて、ここで言っておこう。
一穂くん、君は素晴らしい記憶力を持っている。だが、君がそれで覚えてきた……覚えさせられてきたことは、現実と比べていささか偏っていると言わざるを得ないんだ。
これから私は、君の知らなかったことを教えよう。それを君がどう受け取るかはわからない。けれど、君がこの世に……現実に興味を持ってもらえるよう努力するつもりだ。
……そう、現実への興味。それが大切なのだ。私も若い頃は挫けそうになったり、ヤケを起こしそうになったこともある。そんな時に踏みとどまらせてくれるのは、自分は現実にまだ興味があるんだと、この世にはまだまだ知らないことがたくさんあるんだという思いなんだ。私の場合は、だけどね。
そして物事に興味を持つには自分に正直になることだ……今、自分がどう思っているのか、できるだけありのままに言葉にすることだ。
大丈夫、難しいかもしれないがきっとできるようになる」
と、ケーキをフォークで口に運ぶカール博士。
「うむ、ウマイ! 極上だ!」
指から舐め取ったケーキの欠片が、舌の上でとろける。
それは今から思い返せば、快いものだと、少しはわかる。
☆ ★ ☆ ★ ☆
「……僕はよその世界から来ました」
一穂は、K.Mにそう返事をした。
「え! ……いや、そっか。そうなの、かもね。あんな、水槽とかは……」
「これで、十分ですか。とにかく急いでアダムスを捜しましょう。この先どうすべきかわからないのなら、選択肢を多く残す方向でいくべきです」
「あ……うん、そうだね。でも、服……乾かないよ?」
「そうですか……」
仕方がないのでそのまま焚き火を挟んでしばらくじっと座っていると、やがてK.Mがこっくりこっくりと船を漕ぎだした。
一穂は静かに横にしてやった。