
後方から追いすがるツタがK.Mの脚を絡め取り、にわかに空中に持ち上げた。
「やめろよぉッ!!」
すると、一瞬の内にK.Mの手のなかに刃が生まれ、ギィンッ!! 青白い光が奔って、縛るものが切り落とされる……
こんなことがもう何度繰り返されたか、K.Mにもわからない。目の前の出口に本当に近づいているのかどうかすらも。
「逃げる・こと・ない。ここが・終わり。ゴール」
それは、自分を診てくれたあの木の医師の声かも、王様の声かもしれなかったが、K.Mにはどうでもよかった。
とにかく少しでもここから離れなくてはならない。それだけで思考を満たした。
「くそっ、くそ……!!」
ギンッ! ギィン!
脅かすものを拒む異能力は一穂を守ってはくれるが、いつまでももちはしない。
K.Mは後ろを向き、仰向けになった。
おぞましく聳える巨樹が、床のおよそ七割を根で満たし―――その割合も見る見るうちに増大している―――その上には細いツタが千本ものたくりまわって、自分を狙っている。
幹にでも攻撃の主体が潜んでいるのだろうとK.Mは期待していた……実際、そこには眼球を思わせる、巨大な琥珀の球が埋め込まれていたのだから。
「アレが……敵かァーッ!?」
その敵が何者なのかは一切考えず、K.Mはただ絶叫した。
ギィーン!!
応えるように、閃光が琥珀の眼を打つ……が、直後その軌道はくの字に折れ曲がり、天井へと突き刺さるのがK.Mには見えた。
―――どういう硬さをしているんだ?
思案した瞬間、数本のツタがK.Mをめがけて飛翔した……
が、そこへ、パゥ、パゥッ!! K.Mの眼前でツタが弾けとぶ。
かと思えば、臙脂色のジャケットをまとった胴体が降ってくる―――K.Mはそれに見覚えがあった。
「犬の時の……!!」
☆ ★ ☆ ★ ☆
「……そうか。俺はずいぶんお前をピンチにしちまったんだな」
医師はもう手は止めている。一穂にはもうやれるだけの処置は施していた。
後は、彼自身が持ちこたえられるかどうかという段階であった―――もっともそれは確実そうに見えた。一穂の回復力は、なぜだか異常だったのだ。
「つーかコーヒーなんぞもらっちまって……文句言ってくれりゃタダにしたのにさ」
「い、いえいえ……だってあなたのせいかどうかもわかんないじゃないですか」
慌て気味に両手を振るK.Mを、医師はどこか覚悟していたような眼で見ていた。
「それで、お前は助かったんだよな?」
K.Mは首を縦に振った。
その拍子に、医師の足元が少し見えた。何もしていないのに靴が脱げていた。
☆ ★ ☆ ★ ☆
おとぎの国の空は今や炎に包まれ、あたりに火の雨が降り注いでいた。
どれだけ巨大で恐ろしくても所詮は樹だった。俊夫が連れてきた異能者の中で火炎の制御を得意とする者たちが、逃げる最中に耐えかねて火を放った。その結果がこれだった。
「ちくしょう! ちくしょう!!」
俊夫はそこらの動物をひっつかんでは己が異能で放水ポンプに変え、上に水を噴射しながら全力疾走していた。前方に一穂、後方に美香、ほか二名の異能者たちが続く。
「燃やすの早すぎんでしょ……!」
美香は毒づいたが、内心その張本人達は既に炭になっているのだろうと覚悟していた―――おとぎの国への突入メンバーは十数名はいたはずだったのだが、今ではここに居る者が全てだ。
それでも、後はもう逃げ続ければいつかは助かるはずだった。
「そうだよなぁ一穂ォ、逃げりゃいいんだよなァオイ!?」
生命を使い捨てながら走る俊夫が、悲鳴のように問うてくる。
一穂は、このおとぎの国につけられたDE-1401という名前を知っていた。
それが本質的には植物であり、どこかで発芽すると異次元に根を伸ばし、十分に成長すると生きづらさや空虚さを抱えた人々を己の養分にするのだと知っていた。
そこまでわかっているのはつまり、一度は大規模に根を張ってみせた個体がいたということで、それは無数の火炎放射器で恙無く焼き殺されたのだということを知っていた。
けれどそれは、誰かがまとめた報告書に書かれていたことにすぎない。
おとぎの国を支える巨樹は、突如として燃え盛る身体を地上へと伸ばしたのだった。
最後の力を振り絞るように―――あるいは、何か新たな活路を見出したかのように。
☆ ★ ☆ ★ ☆
「……イバラシティの死傷者は、今の所322名。
ついに『侵略』が本格的に始まったんだって、誰も彼も騒いでます」
「そうか」
巨樹はあれから炎に包まれた腕で、異能者たちを襲って、襲って、しかしどうにもならず、ついに力尽きた。彼も、美香も俊夫も、おとぎの国の唯一の生存者となったらしいK.Mも、それをただ見ているしかなかった。
一穂の知らない異常性が発揮されていた―――イバラシティの環境がそうさせたのか? だが、それを考える余地も、余裕もなかった。
いまにデマが飛び交い始めるだろう。そうなれば暴動が起こり、隣人同士で殺し合うようになるかもしれない。歴史の教科書に、あるいはだいぶ昔の漫画にでも描かれていたようなことが現実になりつつあった。
「……ぼく、あのシロナミって人と連絡を取る方法を探します。
あの人に頼んで、これは少なくともアンジニティのせいじゃないんだってことを伝えれば―――」
「やめとけ」
医師が制すると、K.Mは少し黙らなくてはならなくなった。
「パニクってる時に得体の知れないヤツがテレパシー飛ばしてきたとして、信じるか?」
医師はベッドに横たわる一穂に目をやる。彼の胸は静かに上下しており、そこだけを見れば普通に眠っているようにもとれた。
「どうすれば……」
「どうしようもないさ。まあ、いっそイバラシティが住めないくらいメチャクチャになっちまえば、アンジニティの連中も戦う理由をなくして―――」
「そんな!」
K.Mは医師に食ってかかった。
「そんなのってないです……イバラシティがこのままダメになるなんて、それこそダメですよ!」
「だったら、なんだ。このハザマからどうにかできるのか?」
医師の諦観は正しかった。ハザマからイバラシティに干渉する術など、今わかっている限りでは無いに等しい。
「それでも……それでも! こんなのって!!」
駄々をこねる子どものような気が、何かを押したのかもしれなかった。
医師はく、と傾くと、ドサリと椅子から床へ落ちた。
「だ、大丈夫……!?」
声をかけたK.Mの瞳が、縮まった。
白衣越しにもわかった―――医師には、膝から下がない。その膝もどんどん消失しているらしく、布がくたりと床に垂れ下がっていっている。
「……俺は、ここでも戦うことから逃げ続けてた。ナレハテになって、当然なんだよ」
医師の哀しげな微笑み、その表面を汗が伝っている―――いや、汗ではない。肉がアイスのように溶けて滴り落ちている。
「な、なんとか、なんとかしなきゃ……! そうだ、異能を使って!」
「無理だ。ナレハテ化を止める薬なんてあるわけねえだろ」
「やってみなくちゃ分かんないじゃないですか!!」
K.Mは半ば気が触れたように、この部屋の本を引っ張り出す。
どれもこれも、イバラシティにも存在していたこの病院の蔵書である……ナレハテのことが書かれているものなど、あるわけがなかった。
そのことに気づいてか、単に体力が尽きてか、K.Mは息を切らしてへたり込む。
「……お前さ、なんだってそんな一生懸命になれるんだ」
そう言う医師は仰向けに倒れていた。まだ、腕は残っているらしい。
「誰だって幸せになれるんだって、綺麗事が本当になることもあるんだって、信じなくっちゃ……
世界がそういう風にできてないわけ、ないんです……! きっと……、いや、絶対に!!」
どうしてそうも愚直になれるのか、問いただす時間はもはやない。
ただ医師は、心のなかで確信した。彼は、目の前の少年は、イバラシティの人ではない。
こんなに夢見がちで、けれど具体的にどうするかは全くわかってないような奴が、イバラシティに―――結局は生まれついての異能が生き方を決める世界に住んでいるとは思えない。
それでも、もしももっと早いうちにこの少年に出会っていたら、自分の人生はどうなっていただろう……
「お前……これからどうしたい? お前の夢はなんだ? そのためにどうするんだ?」
だから、思わず、聞いていた。両腕で上半身を起こして。
見下ろせば脚の大部分が既に失われ、股関節が溶け消えつつあるのがわかる。
「……。」
目の前の少年の言葉を、医師は唇を噛むようにして待った。
「……やっぱり、探します。どうすれば、イバラシティの人たちも、アンジニティの人たちも、助かるかを……
ワールドスワップを止めるのがいいのか、やらせるのがいいのかだって、決めなくちゃ。こうなったからには、戦いが終わった後でどうするかさえも考えなくちゃいけないんです。これから……急いで……」
そこまでが、今の少年の決意の限界らしい。
けれど言葉だけではない、目の輝きや顔つきといったものが、心に波紋をつくる。
「そう、か」
腕が体を支えきれなくなるより一瞬早く、医師は椅子にもたれかかった。
体中の骨が硬さを失い、粘土のような状態を経て、泥っぽくなりつつあった。今に顎が外れて喋れなくなり、眼窩からは目玉が転げ落ちていくのだろう。
ナレハテのあの顔を忘れることはなかった。ハザマに来た最初の一時間、振り向きざまに見せつけられたあれを……
「……泣いてるんですか?」
ふと、K.Mが言った。
医師の頬を、なにかが伝う―――彼自身、それは眼球の組織が溶けたものだと思っていた。
なぜ、今更泣かなくてはならないのだろう。
何がしたいのかもわからないまま生きてきた。
むしろ、何もしたくはないのだと思っていた。
あのおとぎの国に誘われたのも、そのせいだ。
死んでしまうくらいのこと、どうでもいいはずだった。
いっそ死ねたらいいとすら、思っていたんじゃないのか……
「……ぁ、ぁあ、」
閉じられなくなった口から、奇妙な声が漏れる。
「あぇ、ぇ、ぇあ、あ」
漏れる、漏れる、止まらない。
何を言おうとしているのかさえわからなくなってくる。
それでも、もう原型を留めてすらいないのだろう声帯を、震わせ続けなければいけない。
どうして……
「お医者さん……。」
K.Mが顔を近づけてくる。
「ぁぇ、ぇ、ぇあ、ア、ぇア゛……」
―――助けてほしい。
この体をもとに戻して。
ほんの一日だけ時間をくれればいい。
そしたらすぐにも病院を飛び出して、死ぬ気で戦ってみせるから。何かと。
「ァア゛、ぁエエ゛、ェッ、ェア……」
なぜ、そんなことを願っているんだろう。
できるはずがないと思っていたことを、この期に及んでやりたがるんだろう。
「ァアア゛ア゛ア゛ア゛……」
「お医者さん! ダメだ、しっかりしてッ!!」
誰の声なのだろう。
心が、思い出が、溶けていく。
赤黒い泥になっていく。
もう後戻りはできない。
なのに、そうとわかる度に、思わされる。
まだいたい。
『健介』でいたい……。
『健介』で……
―――パゥ、パゥッ!!
☆ ★ ☆ ★ ☆
ナレハテの赤い肉片を上半身に浴びたまま、K.Mは停止していた。
ベッドの上では一穂が体を起こし、その右手の中で拳銃が細い煙を吐いている。
「ここを出ますよ」
一穂はそう言うとK.Mに肩を貸し、引きずるようにして病室を後にした。
一穂の命をつないだマシンだけがその場に残され、少しずつ汗をかきはじめていた。