
白と黒のチェック柄の部屋の中。
少年は一人何をするでもなく、ただ息を吸って吐いて。
目の前の壁の模様を見続けている。
その模様には何もない、変わらないままそこにある。
でも、彼にとってはそれでもよかった……否、どうでもよかった。
彼の意思が尊重されることも、彼の生が保証されることも。
支給される衣服に着替え、支給される食事をとり、支給された寝床に転がる。
そんな日々。
ある日、金属質な音が部屋に響く。
それはこの部屋にある唯一のドアが開いた音。
だが、少年は顔を向けることもせず、だからこそ。
「君は、どうしたの?」
部屋に少女が入ってきたことにも。
その少女が自分と同じくらいの年頃の少女であることにも。
声を掛けられるまで気が付くことはなかった。
「……」
話しかけられた少年はそれに対する答えを持っていなかった。
この世界(部屋)に自分一人だけで、それ以外が来るときは大抵敵で、生きるために撃退をするしかなかった。
自分一人だけだったからこそ、全てを諦めていた。
だがそこに他の人が入って来た、少年はどうすればいいのかがわかっていない。
他人を相手に自分の行動を決めることがこの数年でできなくなっていた。
「喋れないの?」
少女はなおも問いかける。
肩くらいまでに伸ばした黒髪が少年の顔をのぞき込もうとした時に揺れ、少年はそれをつい目で追いかける。
そして、少女の問いの意味を解読しようとして、結局答えを返せない。
声の出し方を思い出せなかったから。
「んー、じゃぁ、首を縦に振ったらはい、横に振ったらいいえで、いい?」
少女の言葉が追加される。
少年はどうにかその言葉を理解することができた。
だから首を縦に振る。
「言葉は聞こえてるんだね。なら、これからよろしく!」
少年は少女の言葉が理解できなかった。
「これからしばらく、この部屋で一緒に暮らす様にっていわれたんだ」
少年は言葉を理解できなかった。
「私の両親が病気で、その治療費を払う代わりに私がここにいるってわけ」
続けられた言葉でようやく理解する。
自分は売られたが、目の前の少女は自分を売ったのだと。
「私の名前は、三奈。これからよろしく、ね」
微笑んだ少女の瞳は奇麗なように見えて。
少年は少女の言葉に首を縦に振った。
そうして少年と少女が同じ部屋にいることになった。
それでも、少年が言葉を口にすることが無い以上、この部屋で生まれるのは少女から少年に対する一方的なものとなっていた。
■ 時は進む ■
「ねぇ、どうして壁を見つめてるの? 意味があるの?」
首を横に振る。
「……楽しい?」
首を横に振る。
「つまらない?」
首を横に振る。
「……どうして、君はここにいるの? 何でここにいるかわかってるの?」
首を縦に振ってから、言葉を発しようと口を開いた。
「あ……げほっ、ごほっ……」
が、少年の口から洩れた音はすぐさませき込んだそれに代わり、背を丸めて少年はせき込み続けた。
「だ、大丈夫!? ごめん、しゃべろうと、しないで、無理はしちゃだめだよ」
少女は少年の背中をさする。
しばらくすれば少年の様子は落ち着いたが、少女は申し訳なさそうな顔をして少年に謝る。
少年は言われたことの意味を考えたが、理解はできなかった。
■ 時は進む ■
「う……仕方ないけど私しか話してない」
少女の恨めし気な声が響く。
対象となった少年は顔を少女に向ける、そして口を開こうとするが。
「仕方がないって言ってるから! 君は無理しちゃダメ!」
慌てて少女が少年の口を押さえにかかる。
もごもごと口を動かしていた少年だが、口の動きを止めた。
「ちょっとずつ、一音ずつ声を出せるようになっていけばいいなあ」
少女の言葉に口を押えられたままの少年は首を傾げる。
何故、自分が声を出せることを少女は望んでいるのだろうか。
「む、今なんで? って思ったね? だってさ、今私がここにいて、君がここにいるんだよ」
少年は頷く。
ここに自分がいて、目の前の少女がいることは理解できている。
「この世界には人がいっぱいいて、人が生きてるうちに出会える人なんてわずかしかいないんだよ? そのわずかに入るってのすごいって思うんだ」
少年は首を傾げる。
言ってることは、理解はできた。
だが、すごい、という言葉はわからなかった。
「ほら! 何分の一ってやつ! それに入った人と話さないって何かほら、もったいないじゃん!」
少年は首を傾げる。
考えてもやはり、少女の言う言葉はわからなかった。
「人の出会いと別れはね、きっと貴重なんだよ。その機会を生かすには話すしかない! 私はそう思ってるんだ!」
元気な少女の声に、少年は首を傾げるばかりだった。
だが少女は、そんな少年にただ、微笑んでいた。
■ 時は進む ■
「思ったけど、この部屋寒くない?」
少年は首を横に振る。
「む、嘘だー! って、君の手暖かい!?」
少女が少年の手を握る。
それに頬を擦りつけるなどしているが少年はそれに動じない。
「あー……昨日寒くて眠れなかったからなんか眠い……」
少女はそう言って少年の手を掴んだまま寝てしまう。
少年は床に胡坐をかいている状態で、少女は少年の足の上に頭をのせている。
少年は、この部屋にある寝床に少女を運ばねばと、考えてしまった。
そして考えた自分に対してなぜかと疑問を持った。
しばし考えた後にわからなかったので結局少女を寝床に運んだ。
だが、少女は少年の手を離さなかった。
「……お父さん、お母さん」
少女の寝言が聞こえた。
少年は、少女を寝床に寝かせると自分もまた傍らにいた。
少年は自分が何故そうしたのかがわからなかった。
■ 日々は進む ■
■ 少女は少年へと語り続け ■
■ 少年はそれに答え続け ■
■ 少女は素直に応えてくれる少年を好ましく思い ■
■ 少年は自分を害さず、笑いかける少女を新鮮に思った ■
■ 少女が話しかける時間が増え ■
■ 少年が壁を見続ける時間が減っていった ■
■ 時は進む ■
「むう、まだ声は出ないかー」
少年は頷く、どこか申し訳なさそうに。
「気にしないで。君は素直だし、すぐにこっちの言葉に反応してくれるからね、私も嬉しかったりするし」
「無視絶対にしないもんね。最初からだったけど」
そうだっただろうか、と少年は首を傾げた。
「でも最初に比べて首を傾げる回数は減ったよね! うん、良かった!」
それは少女が少年に話しかけ続けて、言葉の意味などを教えてくれたからだった。
「私はそろそろここを出るけれども」
時間間隔が狂いそうだったが、それなりの時間を共に過ごした気がする。
その間獣と戦わされることもなかったのは、これが実験の一種だから、他の要素を入れたくなかったのだろうか、と少年は考えた。
「……君は、元気でね」
■ 時は進む ■
「私がここから出てさ。君もここから出れたら、海を見せたいなー! でっかくて青くて奇麗なんだよ」
少女が笑いながら口にする言葉に少年は首を傾げる。
海がどういうものか、知ってはいる。
だが、見たことはなかった。
「波がきて、波打ち際の線が揺れて。まるで空の色を映しているような青でね」
少女が語る内容を少年は想像ができず、ますます少年は首を傾げる。
「むう、まあいいや! ここから出たら連絡してよ、そしたら一緒に行こうよ。きっと楽しいと思うんだよ」
少年は少女の言葉で海の想像はできなかった。
ただ、この少女と共にこの部屋ではなく外に出れたのなら、それは楽しいことのように思えた。
それは少年が初めて抱いた望みだった。
「あー、でも君泳げるのかなぁ。泳げなかったら浮き輪借りないとだよね。ああ、海の家で焼きそばとか……」
言葉が途切れた理由を少年はその目で見ていた。
少女の腕から、少年が聞きなれている音が響いて、少女の右腕が狼の腕の様なものになっていた。
「…………あはは」
少女の笑い声に少年は顔を向ける。
「本当はね、気が付いていたんだ。私がここから出れないだろうって」
「だってさ、君の扱いを見たらわかるよ。絶対に外に漏らせないことがここで起こってるって」
「だから、覚悟してたんだ」
「怖かった、とっても。うん、とっても怖かった」
「でもね、君がいてくれたから。一人じゃないから」
「そんな怖さを、紛らわすことができたんだ」
訥々と語られる少女の言葉を少年は受け止め、口を開こうとする。
少女の体から肉が、骨が変質する音が響く。
「駄目だよ、無理しちゃ。ああ、でも、離れててほしいな」
「なんかね、私。駄目なんだ。目の前にある君を、殺さなきゃって、そう思っちゃってる。思いたくないけど、そう思っちゃってる」
乾いた笑いを少女は漏らした。
少年は何も、できなかった。
少年は思い返していた。
そう、いつだって『この世界(部屋)に自分一人だけで、それ以外が来るときは大抵敵で、生きるために撃退をするしかない』のだと。
「あーあ、君と一緒に外に出るの、楽しみだったんだけどな」
「君は知らないものが多くてさ、きっと私にいろいろ聞いてくれるんだろうなって」
「君もさ、だんだんと話せるようになって言って、私一人がこうして話すんじゃなくて、君も答えてくれるようになって」
「会話して、美味しいもの食べたりして」
「……でも無理だから」
「せめて君だけは、ちゃんと外に出て。そして、今まで私が話したこととか。覚えててくれたら嬉しいな」
少女は口を噤んだ。
堪える様な、泣きそうな、笑い顔を浮かべて。
「……あはは、苦しいや」
少年は、静かにその腕を、鋭い爪を持つ狼の腕に変えた。
「……君、苦しそうな顔を、しないでよ」
少年はそれを、自分が生きるためではなく、相手を殺すために向けた。
「自分の最期は、ずっと前から決めてた」
「だからね、君に殺されるわけにはいかないんだよ」
少女はそれを、自分が生きるためではなく、相手を生かすために向けた。
「―― 」
少女の異形の腕が、少女の体を穿った。
「―― 君に きず つける わけには いかない から」
少年は思わず少女に駆け寄る。
少女の体から流れる血を止める術もなく。
「あ は 。私 君に あげられたか な」
少女は、笑う。その体が血に塗れても。
少女は自分の死がわかっていたからこそ、此処までの日々で様々なものを少年に与えられればと。
少年が『人』で在れる要素を渡せればと。
そう思い、話しかけ続けていた。
「―― み …… な ……」
そして、それは一つの結果に帰結する。
言葉を発せなかった少年が、口にした少女の名前。
少女は、微笑み。
「私 の 名前 呼んで く」
そのまま、もう動くことは、なかった。
その同日、2/14に少年は救出されることになった。
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■2/14 早朝■ イバラシティ 2年後
ある霊園に一人の少年が佇んでいた。
袖口から肩にかけてファスナーがある特徴的なそれを着た少年は、傍らの水桶に柄杓を入れると目の前の墓石を見つめる。
「……一緒に外を見ることが叶わなかったからと言って、名前を共に連れて行こうなどとは、二年前の俺は何を考えていたんだろうな」
過去に『3番』と呼ばれていた少年は、空を見上げた。
「いや、それが感傷。つまるところ思い入れか、弱さか」
誰も聞かない独り言、風にそれが消えたころに、今は『三波』と名乗っている少年はその場を去った。
「三奈の心の強さには、まだ届かんな……」
そんな言葉を、残して。