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「貴様…見たことあるぞ。…2年3組の燕か?」 |
聞こえる声に、気配に顔を上げる。
巨体を引き摺りながら俺の目の前へと現れた、黒く大仰な異形。
じろじろと、中心部の赤い大きな瞳を薄めてこちらを確認してくる。
──その姿に目を見開く。
そうしている間にも巨体がどろどろと溶け、黒い液体の中からヒト型の男が姿を見せた。
嬉々として目を見開き、ぼたぼたと黒い液体を垂れ流したまま男は近づいてくる。
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「その姿、中々にいけめんではないか?燕ェ…?せんせい惚れ直してしまいそうだぞ??」 |
変化する姿。懐かしい声。懐かしい檜の香り。
──ああ、忘れるわけが、忘れられるわけがない。
好きなんて言葉では、愛してるなんて言葉では言い表せないほど、
大事で、大切で、好きで愛していて
大好きで大好きで大好きで大好きで大好きな
「──か、」
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「カゲロウさん──!」 |
目の前の大好きな人に、飛びつくように抱きつく。流れる液体なんて少しも気にならない。
ただ大好きな人に、カゲロウさんに会えたことが嬉しくて、嬉しくて。
ずっと考えていた。ずっと想っていた。ずっと我慢していた。ずっと会いたかった。
その人に、ようやく。
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「なんだ、つばめェ…甘えん坊さんか?この前の海辺とは、態度が全く違うではないか…」 |
頭を撫でる感触に目を細め、身を委ねる。
温かい手。優しい手。大好きな手。
また撫でられたいと、ずっと思っていた。その願いがこんなに早く叶うなんて。
これ以上の幸福なんてない。
…ああ、心地良い。
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「海辺?…イバラシティでの話ですか?
だって“燕 遥翔”は俺だけど俺じゃないじゃないですか。違って当然ですよ?」 |
“燕 遥翔”はイバラシティでの俺の名前。俺だけど俺じゃない人間の名前。
自分が人間になっていたなんて虫唾が走るが、燕 遥翔はカゲロウさんに絶対に危害を加えない。
彼の願いの邪魔をしない。彼を第一に考えている。
だからまだ、許せる気がした。
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「それよりカゲロウさん。 イバラシティの名前じゃなくて、“俺の”名前、呼んでくれないんですか?」 |
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「……?貴様と会ったのは今回が初めてだが…。あの退廃した世界で会ったか?
悪いが、信者の顔はほぼ全て覚えている。その中に貴様は居なかった」 |
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「あ……そう、でした。この姿で会うの、初めてでしたね」 |
そうだ、分からないのは当然だ。以前彼と会ったときは、こんな姿ではなかったのだから。
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「…アンジニティじゃなくて、その前の世界で。貴方に助けてもらいました。
…覚えて、ませんか?」 |
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「……悪いが、俺の救いを求めた者は多くいる。 前の世界…ということは、貴様はアンジニティか」 |
…すぐ思い出してくれないことに少し寂しさを覚える。
だけど仕方のないことだ。本当に今の姿とはかけ離れていたのだから。
それにちゃんと名乗れば、きっと思い出してくれるだろうから。
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「? そうですね。カゲロウさんもそうでしょう?」 |
どうしてそんな当然のことを聞くのだろう。俺もカゲロウさんも、アンジニティに決まっているのに。
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「…あぁ、あぁそうだ。俺はアンジニティで、貴様もアンジニティだな。
…だから、死ね」 |
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「えっ…?
カゲ────いッ!?」 |
乱暴な手つきで頭を掴まれ、無理やり剥がされる。
痛みに顔を顰める。
その間に目の前の相手から多量の黒い粘着質の液体がドロドロと流れだし、異形へと変化した。
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「あははははは!!!!!何処ぞの誰とも知らぬ1羽の燕が!!! どんな悪事をしでかしたァ!?!! 悪い子だ、悪い子だなぁつばめェ!!!! せんせいが生徒指導してやろう!!!はははアハハハ!!!!!!」 |
狂ったような笑い声。頭の中で繰り返される彼の言葉。頭を巡る疑問。
──なんで?どうして?
彼の、貴方の言動が、理解、できない。
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「か、カゲ、ロウ…さ…ん……?…ど…う、して………」 |
ずっと頭の中で繰り返す疑問。
こんな風に乱暴にされたことも、酷く言われたことも、今まで一度だってなかった。
こんな貴方を俺は、見たことがなかった。
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「ひとつめの問題だァつばめェ!! 俺がいつ、アンジニティの味方をすると言ったでしょうかァ!?!!」 |
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「え…?」 |
アンジニティの味方じゃ、ない?
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「え……え、…え…?え……そんな、はず……え?………じょ、冗談……です、よね…?」 |
懇願のような言葉。縋るように、相手を見上げる。
そんな、待って、嘘だ。冗談に決まっている。冗談じゃなければ、それは、
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「サァ2つ目の問題だ。俺の趣味はなんでしょうか?サンドアート?フラワーアレンジメント??
残念!!正解はァ〜…!!?悪を働く存在を滅することォ!!!! はは、ハ、犯罪者や悪い奴を殺すと、色んなところで称賛されるだろ う!? 馬鹿らしくて楽しくて堪らない快感だ!! こちらは殺したくて殺してるのに、英雄扱いする者までいるのだ!! きひひひ楽しいぞ、おすすめしてやろう!!」 |
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「っカゲ…ロウ、さん……う、そ…です、よね…? アンジニティじゃない、なんて…そんな……こと………」 |
彼が何か言っている。けど頭に入らない。同じような言葉しかでない。
どうしても信じられない。信じられない。
…信じたく、ない。
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「貴様が俺の何を知っているというのだ?
今宵の阿闍砂カゲロウは、イバラシティを防衛する者だ。 世界に捨てられた癖に今更あの街を侵略しようなど、見苦しい。 塵は塵に還してやるのが道理と言うもの。そうだろう?」 |
──世界に、捨てられた?塵は、塵に…?
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「…ちがう……違う!!」 |
強く
“否定”する。彼のその言葉を。
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「世界に捨てられた……確かに貴方はあの世界に捨てられた!人間に裏切られた!! あいつらは貴方を利用するだけ利用して捨てた!!!
貴方の存在を否定し、アンジニティに堕とした!!!
貴方はただの被害者だ……何も悪くない!! それなのにこのままあんな世界で、アンジニティで生きなければいけないなんて おかしい!!!」 |
そうだ、おかしい。彼が幸せになれないなんておかしい。
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「…けどチャンスが来た、来たんです! あの世界を出られるかもしれない、貴方の夢を叶えられるかもしれない!! アンジニティにつけば、それが叶えられる!!!
なのに、なのになんでイバラシティの味方を、人間共の味方をするんですかカゲロウさん!!?
そんなのおかしい、絶対おかしい! だって、だって…!」 |
そんな世界はおかしい。
おかしいおかしいおかしい!!!
そんな、
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「アンジニティにつかなければ、 |
彼が、
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貴方は一生、自由になれない!!!!!」 |
自由になれない世界なんて。
悲鳴じみた声。
笑われてもいい。馬鹿にされてもいい。
ただ嘘だと。
イバラシティにつくはずなどないと、言ってほしかった。
だって、アンジニティにつかなければ、
貴方の夢は、叶わないのに。
──いつかの記憶が思い出される。
鳥籠の中で、貴方は……
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「…ほぅ、多少は俺の事を知っているとみえる。 裏切られた…か。あぁ、いくつか訂正してやろう。
裏切るも何も、俺はあの人間どもを仲間と思ったことは一つもない。 利用されたと言うのも、結果論に過ぎぬ。俺は化かし合いに負けた。それだけのこと」 |
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「っ…そうだとしても!イバラシティにつく理由にはならない!! カゲロウさんだって人間を憎んでいるはずでしょう、自由になりたいはずでしょう!?
なのに、なのにどうして!!」 |
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「話はそれだけか、アンジニティ。
世界より否定されし悪の者よ」 |
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「っ…カゲロウ、さん……」 |
一瞬、泣きそうに顔を歪める。
目の前の人が、自分の知らない人のように思えて。優しい貴方しか、俺は知らないから。
けど、どんなに拒否されたとしても、俺は……
真っ直ぐ、意志を持った瞳で相手を見つめる。
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「…まだ、まだ間に合います…!
こちら側に、アンジニティについてください!」 |
一歩距離を詰め、叫んだ。
願いを、込めて。
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「阿闍砂陽炎は快楽を求め、今宵荊街堕ちした否定された者<-アンジニティ->。
誰が何と言おうとも、俺は俺の意思を変えることはせん」 |
刹那、俺と彼の間を裂くように、銀色の閃光が走る。
思わず目を瞑り、次に開けたときに目の前にある異形。
奇抜な色をした大きな蜥蜴の様なそれは俺とカゲロウさんの間に立ちはだかる。
そして触手のようなもので携えた幾本もの刀の切っ先を、俺に向けていた。
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「おそうなってすみません。ご無事ですか?兄上」 |
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「…あぁ。目障りな小蝿を祓え」 |
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「御意に」 |
背を向けるカゲロウさんを庇うかの様に、俺と向かい合う異形。
反射的に距離を取り、絶え間なく流れ落ちる自らの血から槍状の武器を生成する。
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「……誰だ」 |
カゲロウさんに向けていたものとは全く違う、警戒と敵意の籠った低い声が漏れ出た。
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「砂上の楼閣、幹部 波渦平良。
兄上─…いや、カゲロウ様と同じモノ…といえば分かるやろか?」 |
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「……貴様はカゲロウさんの夢を、願いを知っているのか」 |
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「…少なくとも、お前よりは知ってる」 |
話している間に立ち去っていく大事な人。
名前を呼び追いかけようとしたが、目の前の異形に阻まれ叶わない。
伸ばした手が届くことはなかった。