墨染ふみと稲井とわが出会ったのは、ふみがすでにアンジニティへ落とされた後だった。
ふみは何か強力な異能を持っているわけではないが、密かにアンジニティと外の世界を行き来していた。
アンジニティは正しく『強大な檻』だ。抜け出すことなど、ふみの能力程度では未来永劫かなわないだろう。
事実ふみは『抜け出していた』のではない。
ふみのわずかな一部が密かに染み出し、動きまわり、眺め回っていたにすぎない。
そのさなか、たまたま己の好みである状況に遭遇し、嬉しさのあまり、ほんの少しだけ手を出した。
だからそれは――ふみがとわに対してしたことは――どこまで行ってもふみの自己満足、言ってしまえば単なる独りよがりでしかないのだが、それがとわにとって得難い手助けであったこと、その後の『道』への間接的な手引きであったことも、また事実であった。
それらは、ふみにとってもとわにとっても、少しだけ楽しい記憶だ。――記憶だった。
それがいま。
そろってワールドスワップに巻き込まれたせいか、ふみの記憶もとわの記憶も見事改竄の憂き目にあった。
(ふたりの偽りの記憶に齟齬が生じていないことが何より恐ろしい、とふみは思う。)
イバラシティにおけるふみの記憶では、『異世界で新興宗教に軟禁されていたとわと知り合い、色々と調査に協力してくれたとわが逃亡する際、少し力を貸した在野の異能研究者』、それが己だ。
その後、謝礼代わりにとわの避難先であるイバラシティへ同行させてもらい(何しろいろんな異能がある世界と聞いたもので)、内心小躍りしながら地道な研究を続けている……、と思っていた。
イバラシティにおける、ふみの自己自認だ。
それがどうだろう。
ハザマに入り込み、アンジニティの記憶が戻れば、己はすでにずいぶん前から人ではなかった。
在野の異能研究者であることは、間違いではない。ふみは自分のことを常にそう思っている。
しかしその研究――というよりも好奇心のため、全てを捨て、引き替えて、人ならぬ罪と業の果てにアンジニティへと落ち、落ちた先でも変わらぬ自分がさらに裏道と禁忌を用いて、とわのいた異世界に偶然染み出していた存在だったことは、きれいさっぱり忘れていた。
初めてハザマでとわに対面したとき、何となくその旨を説明したところ、いささか驚かれたが――あの無表情のとわの目がまん丸になっていたし、そばにいた巨大なセキセイインコの青年の目も、いつもに増してまん丸になっていた――、ふみがとわたちに対して敵意がないことを示せば、まるでイバラシティにいるのと同じ態度で接してくれたことには、ふみの方が驚いた。
「いやあ、私、自分で言うのもなんだけど、随分な人でなしだと思うんだが」
「へえ、そう。でも、別に……。わたしには、あと、誠哉にも、酷いことをしてないから」
「とわがそういうなら、まあ、僕も……。実際、あのときは助かったしねえ」
「ねえ」
「これからも、僕たちやイバラシティに変なことをするつもりはないんでしょ?」
「ああ、ないよ」
「だったら、やっぱり、わたしは別に。……それより、ふみ、アンジニティにすんでいて、イバラの味方をしてしまって、良いの?」
「あ! そうだよ。良いの?」
「……君たち、私が言うのもおかしいけど、ハザマでは十分気をつけるんだよ……」
穏やかな会話だった。
ふみが置かれている――これからも置かれ続ける現状からすれば、嘘のように穏やかな会話だった。
イバラシティに戻れば忘れてしまうけれど、ハザマに戻るたびに思い出す会話だ。
これが、ふみがイバラシティ侵略に反対する理由では、決してない。ふみは最初から反対の立場をとっていた。
ふみはどこまで行っても身勝手で、異常で、今後も己の興味と好奇心のみを追求し、欲望を優先し、そのためなら恐ろしく底なしに何もかもを引き替えてしまうだろう。
ふみがイバラ侵略に反対するのは『普通の人に発現する異能が己の好みで、多元異世界等における多種多様な種族が強大な異能を保有し争い合っていることが当たり前の状態に興味がない』からだ。
だから、同じくイバラ侵略反対の立場をとったボルドールから声をかけられた時に頷いたし、侵略に嫌悪感を持っていたノーヴァルと併せて三人で組むことにも同意した。
ふみは、自分の欲望を優先し、イバラシティの侵略に反対している。