幼心に、まるで竜宮城の玉手箱の様だと思った事を。
今でも鮮明に覚えている。
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枢木 「……まさか、こんな形でお前の姿を拝む事になるとはね」 |
赤黒く染まった空。
そこに悠々と泳ぐ『それ』の姿を見上げながら、男は独り言ちていた。
周囲を見渡してみる。
見覚えの無い景色。不気味な程に静まり返った近辺に、自分以外の姿は無い。
普段ならば常に寄り添い従う“相棒”の姿も見受けられず、
恐らく此処には来ていないのだろうと、その件に関してのみはプラスに考えておく事にする。
――否、“恐らく”ではない。“確実に”だ。
彼女は男の異能によって今の姿を維持している存在。
その気になれば近くに在るかどうかを感じ取る事が出来る。
……そういう風に出来ていた。
兎も角、猫らしき姿は周囲に見受けられず。
代わりとばかりに眼前にいるのが、この『異能』だ。
枢木の血を引く全ての人間がその身の内に宿す存在。
普段ならば滅多に表に出さず、且つ“出て来ない”筈の自身の『異能』と呼ばれる存在。
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枢木 「(……力、強まってんのか)」 |
意思を持って男のコントロール下から抜け出したとなると、そうとしか考えられない。
ぴりぴりと肌の上を流れる空気が、それを物語っているのだろう。
そう合点がいけば納得ができ、同時に男の口から溜息が零れ出ていた。
表に出す必要が無い。
寧ろ晒せば、弱点になり得る。
“情報”というのはそういうものだと、知っている。
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枢木 「――――」 |
意識を集中させる。
胸元から中心を辿り、下腹部に向け落とし込む。
――金色の瞳同士の、目が合って。
瞬間、
“ ”
薄れ始めた巨体は、霧散する様に消失しただろう。
どうやら、コントロールが全く利かない訳ではない様だ。
ふうと重い息を吐き出してから、改めて周囲を見渡す。
異質な空の色。
どこかから聞こえる歪な声らしきもの。
静寂の中に時折混ざり込む、不可解な気配。
つい異能の方へと真っ先に意識を向けてしまったが、
改めて現実を目の当たりに、理解の追いつかなさに眉間に皺が刻まれた。
……これは、あれだろうか。
先日、脳内に流れた妙な映像。
侵略だとか、アンジニティだとか。
『この街、色々不思議ですから。
…世界の入れ替えぐらい、起こるんじゃないかな、って。なんとなく』
……まだ記憶に新しい、少女が口にしていた言葉が脳裏を過る。
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枢木 「……、……マジだったってのか」 |
零れた呟きを肯定してくれる相手こそいないものの、
あの映像と同じ目の前の景色がその解答を嫌と言う程突き付けて来る。
正直、半信半疑だった。
異能という存在がある以上、全く有り得ないとは断言出来ず。
けれどもあまりにも突拍子も無い内容だった為に、鵜呑みにはせずに過ごしてきた。
結果が、これである。
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枢木 「…………」 |
……結果が、これとして。
こうなってしまったのならばいっそ、
下手に動かない方が賢明ではないのだろうか。
冷たいコンクリートに背を預け、
慎重な男はそう結論付けてはどこかに身を潜めようと――
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「――――、」 |
“ 佳仁さんは、 ”
――決断するまでに、至れなかった。
そうだ。嗚呼、そうだ。
もしこの現象が本当に侵略だと仮定して、
イバラシティの人間全てがこの“決闘の場”に送り込まれたのだとしたら。
ほんの、つい先程まで。
隣に居た筈の彼は。
己の傍に居ない今は。
何処に居る――。
……指先が次第に冷えていくのが分かる。
受け止めきれずに居た現状が、急激に現実味を帯びていく。
らしくない事は分かっている。それでも。
この場所に、留まっている訳にはいかなくなった。
バサリ
羽織っていた上着を外しては、徐にそれを裏返す。
裏表逆になった服に袖を通せば、通した先からその色彩は失われていった。
前を合わせる頃には夜闇に溶ける様な黒に染まり切っていただろう。
とある異能を用いた特注の外套。
今は席を空けている行方知れずの店主より、譲り受けたもの。
行方知れずのその店主が、この街に来る前に先代から頂いたもの。
――光を吸い“封じる”布地。
訳の分からない、何が起こるか想像もできない世界だ。
これを用いた方がずっと効率がいいに決まっている。
例え決別を望む力でも、利用出来る物は利用した方が良いに決まっているのだ。
冷えた浅葱色に、僅かばかりの焦燥を滲ませて。
目的の人物を捜しにいこうと、一歩踏み出したところで、
幸か、不幸か、
そのノイズ音が耳に届いた――。