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忘れじの、行く末まではかたければ。
今日を限りの、命ともがな。
狭間の世界を、誰そ彼が包み。立ち上がった女の足元を吹き抜ける風は、彼岸花を静かに揺らした。
遠景には、朽ち果てた街の影がぽつぽつと。いずれ来る闇に沈み込まんと、所在を消してひっそりと立ち尽くす。
金色の光の粒が舞う。女の四尾から散ったそれは、押しつぶされるように宵闇へ吸い込まれていく。
カミの在処を示す残響でさえ、世の果て、滅びの前には無力と見えた。
そう、終わる。
この狭間はもう終わる。
唐突に告げられた、「次」の宣告。
あまりにも沢山のことがあった、この世界をいとも簡単に打ち捨てて。悲しい争いは女を「次」へ引きずり込むのだと云う。
無かったことになるかもしれない。総ては夢と。
嗚、どんなに。
どんなにそれを、女が望んでいたことか。
嗚、どんなに。
どんなにそれを、今の女が望まざることか。
「──保名、さま」
少し低めの、心を撫ぜるような穏やかな声が。
万感の悲しみと決意をもって、今はもういないその名を呼んだ。
千年の愛だった。女にとっては不変の愛だった。祝のごとくその身を縛る、げに恐ろしき呪であった。
「わしは、お前さまをずっと、愛しておった。」
青く、赤く。滅ぶ世界に手を翳し、誰も聞くことのない告白をする。
「お前さまとの間に晴明をなしたことは、わしの生涯の中で最も誇らしいことじゃ。」
「お前さまと共に、信太の森で晴明を育てたことは、わしの生涯の中で……最も、しあわせな思い出じゃ。」
おうい、くずのは……と。
枯れ葉が風に舞い上がる幻視と共に、かつての光景が去来する。
保名と、葛乃葉。そして晴明。信太の森の、霊樹の下で。
──かかさま。できました!
──おおっ!? なんと、晴明はとんでもなく飲み込みが早いのう! ふふ、その意気ならすぐに、ととさまも超える陰陽師になることじゃろうて。な? おまえ様よ。
──母様。晴明は京にゆきます。父様の助けになるために。
──……行っておいで。そなたの心のままにしておいで、晴明。少し寂しくなるが、なに。わしも近いうち、そちらへ遊びにいくゆえな。
──かあ、さま。
──喋るでない! 喋るな……わしが、わしと保名さまが何とかするからっ……晴明や、晴明! 眼を閉じるな!!
かつての戦。
あやかしとヒト。世の覇を握ることができるのは、どちらか一方だった。あやかしやカミの住まう神秘に満ちた世界は、ヒトにとってはあまりにも生きづらい。互いを滅ぼさんとするまでに広まった戦火が三人に襲い掛かるのは、当然の摂理といえた。
命を狙われ、住処を追われ……良くしてくれた朋友は、みな死んだ。
あやかしたちが連合を組んでヒトに反攻するのだと、お前たちも共に来いと遣いが言った、あの日。あの瞬間。
安倍保名は壊れていたのだ。伴侶を呪い、あやかしを呪い、世界を呪う修羅と化すまでに。
背に刺しこまれた、小太刀の冷たい切っ先。
その感触を、記憶の中の保名を想うたびに思い出す。
「保名さまよ。なあ、保名さま。」
「いつぞやの恩返しをするときが、ついに来たようじゃ」
揺れる四尾から光が散って、葛子は柔く微笑んだ。消える世界の只中でそこだけが、穏やかなぬくもりと光に満たされていた。
後悔は残る。迷いはない。
平く安らかなる世はもう、千年も昔に終わっている。
「そなたを眠らせる。もう逃げることはない。じゃが、今のままではだめじゃ。ゆえに」
狐の、カミの権能が引き出され、引き出され……まるで朝日が射すかのように、葛子の周囲に広がっていく。
隠していた神気は今や限界まで解放され、足元には幾度も幾度も草花が芽吹き、花を咲かせ、枯れ果てた。
暮れゆき、夜に包まれる世界の中で。
そこだけが、世界の始まりの、夜明けのごとく輝いていた。
「晴明を、迎えに行く」
奇跡が起こる。それは宇迦の神遣たる葛乃葉狐に、主の神性も、他の狐たちの妖力すらも受け継いだ安倍葛子にこそ許された権能。
カミなるもの、庇護者の降臨に世界はむせび、歓びに歌う。それがたとえ、末期(まつご)の夢であったとしても。
「──きこしめせ。」
りん、と鈴の音が響き、葛子の異能が……権能が祈りを、願いを聞き届けんと発動する。
葛子は自らの裡の神性に、自ら願いを紡いだ。
「晴明の死んだあの日へ。時を超え、空を越え、一時だけわしを届けておくれ」
りん、と。願いはそして、聞き入れられた。
刹那、葛子の体には激痛が走る。身をおろし金ですり下ろされるかのように、全身の皮膚がひりひりと熱い。
じくじくと、身の内の神性が腐り落ちていく。自ら祈る貴様にカミを名乗る資格はないと、そう言うかのように。
膝をついた。金色の光の中で、自らの肩を抱いて痛みを必死に堪えた。
ばりん、ばりん、と何かが割れる音がする。視界が明滅する。取り返しのつかないものが壊れていく感覚。
「〜〜〜〜っっ!!」
それでも、と。ばらばらになりそうな痛みの中で、葛子は唇をかみしめる。
ふわり、と体が浮く感覚があり、晴明が命を落とした日まで時を遡る準備ができたのが分かった。
周りの音が消えた。血のにじむ唇の痛みだけで意識を保ち、白く染まった視界が開けるのを待つ。
そして──。
▽▲
『喋るでない! 喋るな……わしが、わしと保名さまが何とかするからっ……晴明や、晴明! 眼を閉じるな!!』
動転する自分を、葛子は宙から見つめていた。
「──成功したか。あの日のあの時じゃな」
京の大路。陰陽師、安倍晴明が死んだ日。
護ることは叶わなかった。どんなに……どれだけの力があっても。昼も夜もずっと、一時たりとも緩めずに闇討ちを警戒し続けることは、葛子にはできなかった。
あやかしの廃滅を掲げるヒトびとによって、晴明は討たれた。
「かあ、さま」
「晴明……なるほど、あの時のそなたには見えていたのじゃな、わしが」
青年は、尽きていく命の中ではっきりと、こちらに視線を向けて声を発した。
「母様……もうしわけ、ござい……ませ、ん。父様を」
『分かった、わかったから晴明、頼む……諦めんでくれ』
「言うな晴明よ。そなたは悪くない。何も、だれも。」
葛子は改めて感嘆した。凄まじく聡明な息子。
彼の助けが必要だった。家族皆で止めねば、意味がないのだ。
「わたしは、かあ、さまと」
『隣におるぞ。わしはここじゃ……手を、握っておくれ……!』
「ああ。魂となり共に来ておくれ、千年後の世へと。保名さまをやっと、眠らせるため」
晴明は微笑み、小さく頷いた。少しだけ首を回し、初めてこの時代の葛乃葉へと顔を向ける。
「かあ、さ……あり、が」
晴明の魂を収めるため、彼の懐から御守り袋を取り出そうとして。
「ん……これではだめじゃな。満月殿が困ることになる」
伸ばした手を止め、自らの尾から長い金糸を一本、引き抜いた。
この時代の葛乃葉は悲しみに暮れ、事態に気づくことはない。
「く、力が……」
うまく力を編み込むことができない。無理な願いを強行したせいで、なにもかもが限界に差し掛かっていた。
四苦八苦して新たな御守り袋を作り終えると、それに晴明の魂を収め、しばし休むよう呪を掛けた。
体が空に引っ張られる。刻限が来たようだ。
助けを呼びに行っていたらしいこの時代の保名が戻ってきていた。息を切らせて走り、その瞳は……こちらを見ている。
毀れ、憎悪にまみれた焔を隠そうとすらしない。葛子は苦笑した。
「この子をそなたに任せてはおけん。連れて帰らせてもらうでな。」
そこまで呟いて、また視界は白く塗りつぶされた。
▲▽
「ああ……無理をしすぎたかのう」
ふわり、ふわり。
現世の波打ち際へと引っ張る力を感じながら、葛子は揺蕩うように時間の海の只中を流されていた。
“宇迦信太へぐい”の権能は、自らの願いを叶えるために使ってはいけない。それは葛子自身の破滅をも意味している。
時間移動と、過去の改編。致命的に神性を傷つけるには、あまりに十分な願いだった。
「ふふ。やらねば未来はなし。及ばぬなら、それはそこまで……?」
自嘲したところで、何かが近づいてくる気配があった。
うすぼんやりとした闇。それは神殺しの星空。
閨。眠り、静かに死に至るための場所。
“伽藍”と呼ばれていた、それ。
かつて保名が見出し、葛子が利用したそれが、いまここにあった。
「──。」
その口元に、わずか光が灯る。
「ふふ。あはは。なんと因果な……。
まあ、よい。死んでおれんな、こんなところで」
迷いはない。葛子は伽藍に触れ。
それを、受け入れる。
「恋しきひととの約束じゃ。違えることはゆるされぬ。たとえ……一時、狐とカミの名を捨てたとしても」
くずこの異能が、神性が。伽藍によって減衰させられていく。消滅寸前のところまで、眠らせられる。
同時に身体の痛みが消え、耳が、美しい四尾が、消滅していく。
葛子を狐の神たらしめる要素が、ひとつひとつ眠らされていく。安倍の字は剥奪され、子犬の星を表す新たな字があてがわれる。
「……」
小さなため息と共に、痛みがもたらす身体のこわばりが少しずつ消えていく。
狐は狐を失い、カミはカミを失った。
そこにいるのは、狐疑(こぎ)。もっとも低級な、ヒトとすら、あやかしとすら云えないモノ。
葛子の意識はそこで途絶える。大海の波が、葛子をあるべき“次”へと押し流して──。
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そして、女は目覚めた。