かつて、ヴァリシュワールは一人の人間の騎士であった。
幼い頃から騎士であった父に憧れていた彼は、成人になった頃には身体も精神も既に立派な騎士となっていた。
それは父親による厳しい特訓の成果でもあったが、それよりも大きかったのは幼馴染である花売りの少女「マナ」の存在であった。
彼と一緒に涙を流し、彼と一緒に笑ってくれる――彼の全てを包み込んでくれる「マナ」の優しさに励まされ、ヴァリシュワールは何度でも泥の中から這い上がることができた。
「今は弱っちいかもしれない……でも、こんだけ守って貰ってるんだ。弱いままじゃいられない。将来は絶対、俺がお前のこと守ってやるからさ」
ヴァリシュワールは、このことを口癖のように彼女に向けて繰り返した。それは彼女への約束であり、騎士の初めての「誓い」であった。
時を経て。
誰に対しても紳士的であり、それでいて父親似の豪快さも受け継いだ彼は、多くの人々から愛される騎士となった。
彼は、人間でありながら魔族の軍勢相手に一歩も引くことなく、一騎当千の活躍をする。そんな無双の騎士となっていた。
彼の国への忠義は厚く、想い人である「マナ」への愛は純粋なものであった。
大きな国への誇りと小さな女への愛が、彼の剣を輝かせるたった二つの信条であった。
彼の運命を変える一陣の風は、ある日何の前触れもなく吹き込んできた。
精鋭の騎士達を集め、当時の魔族の頭を討つ――国を守る為の最後の大きな戦いを終えた彼は、凱旋の途中で残酷な報せを受ける。
「城が魔族に攻め落とされ、騎士は全滅、王も討ち取られた。俺たちの国が滅んだ」と。
その報せは、またたく間に凱旋ムードの騎士達を絶望の淵へと追いやった。
残酷な仕打ちはそれだけに留まらなかった。
ヴァリシュワールの故郷の村も、魔族の軍の進行によって蹂躙され、生存者は皆無である、というのだ。
彼が人生最大の戦いに赴いている間に、彼の大事なもの全てが魔族の軍によって飲み込まれてしまったのだ。
この時、騎士達は皆地に伏して、目から赤い血の涙を流して悲しみに打ち震えていたという。
守るべきものも、帰るべき場所も、全て失ってしまったのだ。
皆がまだ立ち上がれない中、ヴァリシュワールは一人立ったまま空を見上げていた。
そうして、自らの故郷へ続く道を、よろよろと歩きだした。
理性では待ち人など居ないと理解していても、心が彼をそのように動かしたのだった。
自分の目で見なければ、信じることなどできなかった。
辿り着いた先は、瓦礫と肉塊の山であった。
ここに来て初めて、ヴァリシュワールは膝から崩折れて地に伏した。
彼が流した血の涙はその場に小さな水溜りを作るほどであった。
彼の胸に宿った黒い炎は、地を震わせ風を歪ませるほどであった。
ひとしきり涙を流した後。
顔を上げたヴァリシュワールは、その血溜まりに映る影を見た。
白い髪をした少女の姿をした影は言った。
「全てを失った哀れな騎士よ。
復讐の炎に身を燃やす剣よ。
愛すべき怨念を纏いし鎧よ。
気に入った。気に入った。
ここに契約を交わそうではないか。
私は冥府の女神。
お前の失った最愛の者をこの世に取り戻してやろう。
代わりに、お前には今日より1000年の間、私の為の騎士となって貰う」
と。
ヴァリシュワールは迷わなかった。
「黒き血を流す冷徹の女神よ。
愛すべきマナを今一度この世に呼び戻せるのであれば、俺は1000年だろうが2000年だろうが
地獄に落ちてやろう。どのような責め苦も受けよう」
ヴァリシュワールは立ち上がった。立ち上がり、長年握り締めてきた王国の騎士としての誇りを、地へと放った。
甲高くも鈍い金属音が所々砕けた石畳を打った。
「ああ。ああ。そうだろうな、お前は迷わずそう口にするだろう。
そう――だからこそ、気に入った」
女神はヴァリシュワールに微笑みかけた。その微笑みはどこまでも温情と愛に満ちていて、それでいてどこまでも冷たく歪んだそれであった。
女神は、ヴァリシュワールとマナに一夜だけ時間を与えた。
現世で共に過ごす最後の時間。全てを守りきれなかったことを謝罪するヴァリシュワールを、彼女はそれでも否定しなかった。
ただただ、涙と一緒に温かい微笑みを投げかけた。
国も剣も。
故郷も家族も。
誇りも栄光も。
全てを失ったヴァリシュワールだったが、生ある最後の時間に、目の前の――たった一握りの愛だけは、取り戻すことができた。
長い間、二人は語り合った。
全てを語るには一夜はあまりに短すぎたが、それでも別れを告げるには十二分であった。
どこまでも、穏やかな別れであった。
そうして、二人の最後の朝が訪れる。
「時間だ、ヴァリシュワール」
「待っていたぞ、冥府の女神よ」
彼の元に現れた女神は、大きな鎌を手にしていた。
彼女は歪んだ笑みを浮かべると、その鎌を大きく振りかぶり、ヴァリシュワールの首を切り落とした。
かつて無双を誇った騎士の首は、冥府の鎌を前に呆気なく落とされた。
――その日。
一人の輝ける王国の騎士が死に、一つの忌まわしき冥府の騎士が生まれた。
一片の慈悲なく、命を刈り取る魔の騎士。
正しく死を迎えさせる為に、全てを平等に切り捨て裁く死の化身。
老人も、若者も、女子供ですら。
それぞれに「定められた時間」と共に彼は現れて、その命を刈り取っていった。
次第に感情は枯れ果て、身も心も異形と化していった彼であったが、
一握りの愛だけは決して離すことがなかった。
そして今日も彼は、屍を踏み砕きながら伝承の闇を駆ける。
いつか血に塗れたこの鎧を脱ぎ去って、もう一度「マナ」に会う為に。
駆けて、駆けて、駆けて。
そうして、気づけば――――彼は、見知らぬ世界に居た。