Diary
もし貴方が異郷の地へ赴く時に何か一つだけ持ち込むことを許されるとしたら何を選ぶだろうか。
貴方はどんな場所でも換金できそうな貴金属を選んでもいいし、故郷の食料や水を選んでもいい。はたまた忘れられない思い出の品や神をも討ち果たす回転鋸を携えてもいいだろう。望むのなら世界の全てを記した攻略本さえ選択可能だ。その物品を貴方が所有しているかどうかさえ関係ない。貴方の願望全てがこの瞬間に限り具現化すると仮定しよう。
――――この問いに彼は迷わず「枕」と答えた。
枕の歴史は古い。その起源は驚くべきことに数百万年前にまで遡る。1924年、南アフリカで発見された最古の人類と目されているアウストラロピテクス――――その化石の頭部下に砕石が敷かれていたことが確認されている。それが儀礼用なのか。それとも彼らの生活習慣に根ざしたものであるかは不明である。しかしながら猿と大した差異がないと思われている化石人類が――認識の違いは認められるかもしれないが――「枕」という概念を有していたことは確かである。古代埃及の墳墓や弥生時代の古墳からも発掘されており、人類と枕の密接な繋がりを我々に示している。
枕の語源に神・霊を降ろすために頭を乗せるという意味で「真座」というというものがある。このことから枕は魂の蔵であり、使用者の魂に安らぎを齎す存在と思われていたであろうことは想像に難くない。数々の宗教が死後、魂が安息の地へ誘われると教えていることなどから人類が無窮の平穏に普遍的な魅力を感じていることは明らかである。そうした救済としての死の疑似体験や比喩表現として語られる通り、眠りとはその日の生の終端を意味する重要な儀式である。その儀式において枕がどのような役割を果たすのかは語るまでもない。安らかな眠りを齎す祭具として寝具の中でも枕は極めて重要な位置を担っている。
先に述べた通り、睡眠は生の終端を意味する。それは就寝前に起こった全ての出来事へ区切りをつけることは勿論のこと肉体・精神の疲労をも閉ざす役割を持っているということでもある。この儀式を行うことで人は心身の負荷を軽減・解消することが可能なのだ。この儀式を奪われた場合、人間がどのような変化を遂げるかは各国の拷問史を紐解けば簡単に理解が及ぶだろう。最長の不眠記録はおよそ20日とのことだが、この記録を成し遂げた人物は正常な思考は勿論、肉体機能にまで異常が発見されたという。睡眠が人類にとって必要不可欠であり、その補助をなす枕がどれほど重要であるかということを先人は本能的に悟っていたのだ。
……などと彼はこの後、およそ二時間に渡る薀蓄を述べて周囲を辟易させたが、まとめて言えばその要求は極めてシンプルであり理解に易いものであった。つまりは彼が求めていたのは睡眠環境の保証であり、その重要性を凝縮した存在として枕と答えたのだ。故に彼がソレを選んだ基準はいかに己が快適に眠れるか否かであり、その他の要素は完全に考慮の外にあった。もしこの時、彼に一匙ばかりの理性と賢明さが残っていたのならば運命は大きくその姿を変えていたであろう。その結果としていかなる事態が齎されたかは推測さえ困難であるが、およそ彼がいかなる呼称を得るかについては明確に想像できる。
僧侶の隠語を起源とする現代社会において最も用いられているであろう罵詈雑言の代表格――――即ち、「馬鹿」である。
――――異世界に召喚されたとある吸血鬼への見解