日々は過ぎていく。 我々が何もせずとも、時は流れていく。 時の流れによって、世界もまた形作られるのだ。
だがそれは永遠ではない。我らが観測・認識することによって、世界に世界としての存在意義が発生する。 その最もたる例はヒトの幻想する死後の世界だろう。死という観測の限界によって、生者はこの世界から乖離し、死者という役割を新たに押し付けられる。この世界を観測することが出来なくなった死者は、別の世界――いわゆるあの世を次の観測対象とするのだ。
では、もしその認識と観測が誤りであるとしたらどうだろうか? 貴方が学んだ歴史、原始から近代に至るまでのヒトの観測結果が、実は創られたものだったとしたら。いや、それほど大仰でなくてもいい。古い友人、遊びを教わった父、生誕させてくれた母。それらの記憶が、まったくのツクリモノだったとしたら?
世界は五分前に出来たと仮定しよう。同時に貴方は五分前に生まれ、故に有得ないはずの歴史の記憶を与えられる。そう、何者か…ヒトの意識レベルを遥かに超越した時の流れによってだ。 これを否定することが、果たして貴方に出来るだろうか? バカなことだと一笑に伏すのは構わない。だが、その否定はどのような根拠があってのことだ?
…私は恐ろしい。こうやって書物を記し、やがては誰かの記憶となる記録を残してはいるものの、もし時の流れが停滞し、全ての時が同じ箇所に集ってしまったら。 私はこれを、「時の認識限界」と呼ぶことにする。認識限界に至った「時の流れ」はそこで停滞し、過去も現在も未来も、何もない状態へと回帰するであろう。時の果て、もはや想像を絶するとしか表現できないこの場所を、私は観測してしまったのだ。
…これを記す手の震えが収まらない。私は狂ってしまったのだろうか。時の果て。あれを認識できたならばまだいい。だが私は観測しかできなかった。あそこはまだ、現段階のヒトが覗くべき場所ではなかったのだ。 私は今後、今ある技術の粋を尽くして二体のホムンクルスを造ろうと思う。一体は私が狂い、暴走したときに私の存在を消去させるために。もう一体は、いずれ時の果てを観測し、認識し…そして、ヒトの世界を救うために。 私もヒトである以上、その認識力には限界がある。彼に組み込んだ時間の認識装置は不完全なものになってしまうだろう。故に、彼にはもう一つの特性を仕込んだ。時の流れを吸収し、己の認識力へと転換させる……有体に言ってしまえば、成長する力を、だ。
私は彼らに託す。何を?そう、希望をだ。次代への希望、愚かしくも愛しきヒトという種への、ほんの微かな希望を込めて、ここに始まりと終わりのホムンクルスを製造する。 願わくば、不完全な彼が永き時を経て成
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