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変わった身体が、さらに崩れて、彼はなにものでもないものになっていく。
ああ。やっぱり死ぬんだ。と思った。
あっけないな。
それが最後の最後に思ったことで、考えられたことの全部だった。
***
隼田院から送られたCHATが繰り返し再生される。
「街……」
行ってみたい。どんなだろう。そもそもハザマからでも入れるんだろうか。
考え事が巡ってそれが問いになる前に端から崩れていく。
隼田院の異能がもたらした変化は、痛くなかった。ただ少し未知の感覚がこわい気がしただけだった。
影響力を手放した結果として、体が崩れていくのも、痛くはなかった。(たしかに案内役と話してたあの子も痛そうにはしていなかった)
ただ、立っているということができなくなって、じんわりとまとまっていた思考が拡散していく。
終わるのかも。終わるんだ。死ぬのかも。それを実感することに怖さははなくて、
ただ、あっけないな、こんなものか。と思っただけだった。、
こんなものだ、と強制的に定義されること自体には、腹立たしさと嫉妬心が顔をのぞかせて、
でも、それらが過ぎてしまえば残ったのは安堵感だった。
ああ。そうか。これでナレハテになって、「升屋影史」という存在がおしまいになるのなら。
これ以上、何かを憎むことも、恨むことも、嫌うことも嫌われることも、見捨てられることも終わって、
誰かを傷つける可能性もなくなって、死にたいとも、死んじゃいけないとも、死んでやりたいとも、もう、なにも感じなくてもいいのか。
俺が頼んだからって何か増やせるわけではないだろうけれど、隼田院についても、助けてほしいと先輩に頼んであるし、
そう思ったら、本当に、すごく、すごく、ほっとしてしまった。
これで安心するってことは、俺は俺自身のことも、自分の周りのことも、負担だったのか。
そんなつもりはなかったけけれど、人によってはもしかすればそういうことになってしまうのかもしれない。
「…… ごめん……」
口をついて出た言葉は、思考よりずっと先だった。誰に宛てるともなしの、空虚な心無い謝罪のことば。
悔しいな。と羨みと嫉妬と情けなさが混じった感情が次にきた。
けれど、収支があわない。返済がまだだ。生きなきゃいけないって、その罪悪感と責任感が
ぎりぎり追いつく手前の、きっと生涯で最高のタイミングのよさだった。
それはあまりに簡単で、きちんと公表されていて、故に罠ではなく、劇的でもないが
代わりに、ありふれていすぎて話にならないというほどではない死に方だった。
ただただあっけなく、先に進むのをあきらめるだけで、
最底辺にいる俺みたいなやつにも、誰にも等しく手が届く、よく出来た『温情』だった。
心の底から湧いた解放されるって安堵感の中、落ちてきた目蓋と眠気のような重圧に逆らわずに
俺は、世界に設置されているシステムに、『俺』というものを、すっかり、ぜんぶ、終わらせてもらってしまった。
***
***
そして、それから。
ここからは、ハザマに綴られた日記ではなく、彼の後日談のようなもの。
あるいは、彼がみた走馬灯かもしれない話だ。
***
「ん……」
記憶の中には存在しない街で、彼は目を覚ました。
最初に目に映ったのは、青くも赤くおない灰色か紫めいた知らない色の空だった。
見上げるとcrossroseの画面ではなく、巨大な目のようなものが浮かんでいる。
「…… ………… すごい、疲れた」
しばらく動かずにそれを眺めていた彼は、ぽつりと現在完了形で、感想を言った。
そう。とても、とても、とても、とても、疲れてしまったのだと思う。
何もかもうまくはいかなくて、希望どおりにもならなくて、とりかえしもつかなくしてしまった。
だからどうしようもなくなにもかもから逃げたくて、そして実際に、死んで、逃げることを許された。
「───────、」
生きて。といわれた言葉が思い出されて、遅れておいついてきた罪悪感にか彼はしばし言葉を失った。
最後の最後、イバラ側を裏切ったから、どうやったってそのぶんの責任は残る。
そのうえ、影史が死んだところで得をするような濃い関係の誰かもいない。
そのへんにあるありふれたひとつがただ減るだけの話だ。
だから「あるべき」論を言えば、升屋影史は持っていた責任を果たすために、生きなくてはいけなかった。
なのに、自分の欲望の使い方ひとつとっても多くを間違えた。
きっと「自分」を守るためにも、もっと人と話さなきゃいけなかったし、あの生まれた世界に居場所を作って、執着を持つべきだった。
責任放棄の挙句、もう疲れたから逃げたい、終わりにしたいという欲望も、死んで、叶え終えてしまったんだった。
「……これ、「俺」、生きてるのかな」
ナレハテ化が止まって、戻ってこれているのは、影響力に左右される
ハザマ時間から解放されたからだろうか。
でも案外、走馬灯か、あるいは罪悪感に追いつかれた結果の夢かもしれない。
視線を落としたら、自分の影がなくなっていた。ついでに、異能が使えなくなっている。
ああ。やっぱりここは死後の世界で、ここから先の何もかも、ただの夢なのかもしれない。
「……、…… 夢かもだから、どうした、って話だけど」
本当になにもかも上手くできたと思えるようなことはなにひとつなくて、
やりたいわがままを通した結果、もっと悪い結果が残った。
升屋影史が升屋影史である限りは離れられず、同時に彼がやりたかったことは、既にやりおわってしまった。
悔しかったのは、ひとつだけ。こうじゃなかったらよかった、と思ったのはひとつだけだ。
そして、だから、そのあとに残ったものが何であれ、これが夢だろうと現実だろうと
もう変わることもない「これまで」の経緯を失くしてはいない。
だから、まだ、やりたい、と思うことだけは、残ったままだった。
死にたい、と思う感情が薄れていることにはあとから気づいた。
死ぬって願い事を叶えた先があった場合、どうやら、生きる理由しか残っていないらしかった。
***
とりあえず、今わかるのは、体を起こそうとすると、頭が重たいと感じるということだ。
視界が、正確には視野の広さが変わっている。左右に広くなっている気がした。
目を動かそうとすると、三つ目か、四つ目か、動く数自体が違う気がした。
慣れないな。と彼は思った。
どうも服にさえぎられていそうな視野がひとつ見えていて、これまで来ていた服を不便に感じる。
邪魔だとは思ったが、服を手放すのには抵抗があった。
この街の主は気にしない気がするとあたりをつけたとしても、
以前の常識や慣れまではいちどに変化したりはしなかった。
おいおいにどうにかするしかないかと、彼は一時発生している問題を保留した。
手を見る。『手』は二本あって増えてはいなさそうだった。
ただ七本指になっていて浮腫んだように膨らんだ肉がデコボコにくっついている。
肌の血色は灰色かかった色になっていてところどころただれたような粘膜じみた赤い皮膚が見えている。
触ると、痛くはないがべたべたする。赤い皮膚の感覚は見た目に反してむしろ鈍くて、あるいはナレハテ化の名残だろうかと彼は思った。
「動く位置すごい違和感あるな」
鏡がないのでわからないが、口の位置もどうやら以前とは違う。右頬と、顎下あたりが動いている感じだ。
口腔とか食道なんかもどうなってるのか謎だった。
内臓の位置なども変わっているのかもしれないが、感覚器官以外はもともとの身体でもそこに存在しているかは不確かだった。
もともと自分の身体の隅々までなんて、理解しきれないままに成り立っている。
七本指を握ったり開いたりしながら、ここはたぶん、隼田院の異能の街だろう。と彼は考えた。
アンジニティにしては建物が多くて人気がない。建物はみたこともないような奇妙な姿をしている。
なによりハザマのように空を見上げてもcrossroseの画面は開かなかった。
「…… 負けたんだっけ、イバラ側」
勝負の結果や、隼田院の勧誘は、どういう結果になっただろう。
この街が本当に聞いていた隼田院の異能であるなら、すくなくとも生きてはいてくれるのだと思うけれども。
そう推測をしてみても、彼の決着についての記憶はかなり曖昧だった。死んだことの弊害だろう。
自意識はある。前のものとは変わっていても、動かせる体もある。
周りを見るための目も、音を聞く耳も、歩くための足もあった。
目に映る街も、街に響く音も、ここに居る自分も、あの人のもの、あの人の一部、あの人の延長。
「……隼田院? ……そこにいる?」
それならば、名前を呼んだら近くにいる相手に聞こえるだろうか。
「外って、どうなった?
今さっき、目が開いたんだけど。なにかできること、……ある?
負債がたまりすぎててどこから返せばいいのかこわいんだけど」
なんならこの先で本当に返すことになっているのかもわかりはしないけれど。
それでも、誰に拾われた命なのかは、誰を選んで続けようと思ったのかはわかる。
「……だから。
邪魔だ、もういらない、ある方が負債だって、お前から言われない限りは、
この先の一生をかけて、どうにか。返す以上を目指すよ」
***
幸いにして、目の前にはいない相手に向けた声は、この街の主人に届いた。
帰ってきた言葉から、記憶はどうやらあちらも継続になったらしいと理解する。
存在を忘れられていたりすることはなく、この街で存在を継続するにあたってのいくつかの注意事項を話してくれた。
曰く、この街で食事をとらないと弱って死んでしまうこと。
曰く、街にいる龍は願いどおりの夢を見せてくれるけれど、起きられなくなるから衰弱死する危険があること。
食事について、共食い感がある命綱で、なんか胎盤みたいだなと思った。
一度死んで、母親の胎の中で休ませてもらって、自分の姿も存在も全部変わって、
新しくなった外にこれから出ていくのかと、そう言ったら、
それは復活というよりも、転生ものの方が近いのかもね。と、隼田院とそんな話をした。
前世の選択で縁を望んだ相手の下で転生できるのは、俺にとっては随分恵まれた人生のスタートだ。
隼田院には母親というより、神様の位置で収めておきたいけれど
そして、これが最後で最後の転生のチャンスなのも間違いない。
なにせ見てきた限り窮屈そうな神様の選ばれし者になれるような気も、なりたい気もしないから。
龍の見せてくれる夢は、きっととても魅力的で、納得した気分で死ねるのだろうけれど、
清算がすんだと言ってしまうには負債を抱えすぎているから、まだ使えないと伝えておいた。
転生先での目標は、負債から逃げさせてもらうためではない形で眠りにつけるようになることになりそうだ。
今がその龍のみせる蜃気楼の真っただ中かもしれなくて、いまも衰弱中の「俺」が死んで、
パチンとこの世界が消えてしまうのかもしれなくても。
不確かで、疑いに満ちていて、今考えていることも、全部が都合のよいつくりもので、
なにひとつ本当のことではない可能性があり、現実ではなにもできなかった結果だけが残っているかもしれない。
都合がよければよいほど、この先、本当の現実かが疑わしいなと思った。
でも、ふとした瞬間になにもかもがわからなくて、どれだけ怖くても、それは、終わりにする理由にはならない。
これまでだって、ずっとずっと、隼田院はわからなくて怖かったけれど、
それは、手を放す気には、ならなかったんだから。
不確かさがどれほど怖くても、まだ、つきあっていけるはずだと今は信じよう。
***
今、とある異能の街に在るのは、升屋影史だったかもしれないもののなれの果て。
あるいは、彼の異能で作られた影かもしれず、または本当に生き延びた彼かもしれないもの。
そして今この世界は、死ぬ前の彼が後悔を残したくなくて見ている、
彼に都合のよい蜃気楼かもしれないし、または現実かもしれない世界だ。
知覚するすべて、なにひとつとして確たるものであるという証拠はどこにもなく、
生まれてから生き続けているという連続性すらもはやない。
それはなれの果て。 生まれて死んで、そして変わって、
望んで新しい世界に踏み出そうとしている生きる理由をもった誰かだった。
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