
少年は手の中の鍵を見つめていた。
彼は赤いガウンをまとい、王冠を身につけ、チリ一つなさそうな白い部屋に立っている。
「陛下、演説のお時間でございます。準備はよろしいでしょうか」
入り口のドアをギイと開けてうさぎ頭の従者が声をかけてきた。
少年はなぜだか少し迷うようにしてから鍵を放り捨て、歩き出す。鍵はそのまま床に落ちるでもなく消えてなくなってしまった。
☆ ★ ☆ ★ ☆
「外の世界でおれはひとりぼっちだった。期待ばかりをむけられた。それに沿わなければ叱られたり、露骨にがっかりされたりした」
王たる少年は民衆―――彼と同じ人間はいない。二本足で立つ動物やら、生命を得たオモチャらしき者やら、果ては月だ星だ太陽だが擬人化された輩やら―――の前に立ち、一つ一つ言葉を紡いでいた。
「ううっ、王様はつらい思いをしてきたのね」
「でもだからぼくたちを守ってくれるんだね」
可愛い盛りの子供のような民草が、平然と演説に口を挟んでくる。
「その通りだ。ここは外とは違うのだとおれは知った。誰に言われるでもなく、自分の、やりたいことを……」
少年は、そこで言葉に詰まる。
沈黙の間に、いくつもの視線が彼の意識に降り注ぐ。生けるテディベアが小首をかしげるのを、トップ・ダウン的注意が拾いに行く。
このままというわけにはいかなかった。
「やりたいこと……」
そう、例えば、
「例えば……朝から晩まで寝っ転がってるとか!
あと、虫歯になるのも気にしなんでお菓子を食べたいだけ食べたり!
もう一歩も動けなくなるまで駆けずり回って遊ぶのもいいな! それから……」
「うわぁ、面白そう!」
「さすが王様!」
「ねえねえ王様もいっしょに遊ばない!?」
「でもこの後もお忙しいんじゃないかしら……」
少年はバネで弾かれたかのように演台をひらりと飛び越し、人々の前にふわりと降り立った。
「気にするな! 王様の仕事はみんなを幸せにすることなんだから。
さあ、今日は国のみんなで一緒に遊ぼうじゃないか!」
「わあーい! 王様バンザーイ!!」
十人十色の無邪気な連中に引っ張られ、少年は七色の街へと駆ける。
そこらにはパンが焼けるいい匂い、甘いお菓子の匂い。野原から風に運ばれてきた花びらは紙吹雪にも似て、祭りめかせる。
苛立ちや憂いは微塵もなく、誰もが微笑んでいる。
少年は一度だけ後ろを振り返り、空の方を見る。そこには居城がただ高く、太陽を衝かんばかりにそびえ立っていた。
☆ ★ ☆ ★ ☆
「……この塾よね、最後に行方不明になったヒトが出たって場所」
美香は、大花塾のビルを見上げて言った。隣には一穂と、しばらく前にカスミ湖の事件で関わりを持った箕形俊夫。
三人はここしばらくイバラシティで起こっている連続行方不明事件について、独自に調査を行っているところだった。
「異能開発、大花塾、未来花咲く、大花塾」
俊夫が口ずさむ。
「なにそれ」
「CMだろ、見ねえのか?」
「忙しいのよ。さ、入って聞き込みよ」
自動ドアをくぐって、中へ。美香は受付をしている眼鏡の女性に声をかけた。
「すいません」
「入塾希望の方でしょうか?」
「ここに通ってる知り合いが行方知れずなんです。何か聞いてません……」
「……」
刹那、美香はくるりと後ろを向いた。一歩、二歩と歩き続け、自動ドアをくぐって出ていってしまう。
俊夫、一穂も後に続いた。
「さ、帰りましょ」
「アイスでも買ってこうぜ」
塾向かい側の通りにあるコンビニを目指して歩き出した二人を、一穂は腕時計をちらりと見てから追いかけた。
時間は最後に確認してから一分と経っていない。記憶と照らし合わせれば、用事が済んでいないのはすぐにわかる。
受付の女は何らかの異能を使ったのだ。都合の悪い客に帰ってもらうために……その都合の悪さが、入塾希望者でないからとは限らないということは想定しておく必要がある。
「あの……」
美香と俊夫を引き留めようとしたその時、ふと一穂の目に留まったものがあった。
コンビニから出てきた中年男が買ったばかりの新聞を早速広げる。
―――裏側に載っていた行方不明事件を取り扱う記事に、一穂はK.Mの名を認めた。
☆ ★ ☆ ★ ☆
黒い髪の少年が、ベッドの上でマシュマロのような掛け布団に包まれていた。
彼はやがて目を開き、頭を起こす。
そして、顔のついた花がそこら中に生えているのを見た。ふんわりと揺れる草むら、青い空。その一部が切り取られるような形で、出入り口がある。
―――そういえばここは建物の中だったっけ。
「おはよう!、おはよう!、おはよう!」
少年がベッドから身を起こすと、花たちが元気よく挨拶してきた。
「やぁ、おはよう」
挨拶を返し、ベッド脇に置かれていたニット帽を手にとって被り、立ち上がると、
「今日は起きれたんだね、よかった! 先生もきっと喜ぶよ!」
と、花たち。
「……先生はこっちに来るの? それともぼくの方から行ったほうがいいかな」
「呼んでもいいけど、自分で行ってみる?」
「そうさせてもらうよ」
「うんうん、エライ! 気をつけてね、K.M!」
心優しい花々に励まされ、出入り口から外へ。その先ものどかな田園風景だった。
振り返れば、出入り口の横に『ビョウシツ 302』とプレートが貼ってある。
☆ ★ ☆ ★ ☆
「具合・どうか?」
樹木の体をした医師が植木鉢の椅子に座り、K.Mを診ていた。
診察室はクリーム色の壁に臙脂色のカーペットが敷かれ、落ち着いたリビングのようなつくりになっていた。
「はい。体を動かしてきたけど、だるくもありません」
と、K.Mは窓の向こうをちらりと見た。遠くに見える街から、楽しげな喧騒がかすかに流れ込んでくる。
「ここ・来た時・お前・とても・哀しんでた。心に・穴・空いて・いた。外の世界・苦しみが・開けた・穴」
「……」
「それも・もう・埋まった。土入れて・種埋めて・水やった。嫌な気持ち・みんな・木が・吸い取る」
「……」
話を聞くままになりながら、K.Mは考えていた。
嫌な気持ち。確かに今ではもう、そんなものもあったというくらいにしか思い出せない。けど、それは何だったのだろう。
切っても切れないような何かが、そこにはあった気がする……
「……ユー、ミ」
その名を呟くとともに、K.Mは忘れかけていた夏休みの宿題を見つめ直すような顔をした。
「ウン?」
が、そこへ木の医者がすっと琥珀の眼で見つめてくる。
K.Mは一瞬ぽかんとしたかと思うと、困ったように笑い、
「……あ、いえ、なんでもありません。忘れてください。
ハハ……ぼ、僕ももう忘れちゃって……」
「そうか」
医師は傍らに置いたカルテにさらさらとペンを走らせる。その間も、K.Mから目をそらすことはない。
「嫌な気持ち・みんな・木が・吸い取る。土に・還す」
☆ ★ ☆ ★ ☆
「うへー、じゃあ俺らあの受付にハメられたのかよ。もっと早く言えよな」
そう言って俊夫はソーダのアイスバーを噛み砕いた。
「大事じゃないことは言わないのよ、一穂は」
美香の分は側面が波打つカップに詰められたレモンのかき氷だ。
残る一穂はというと、アイスではなく新聞を手にしている。さっきの男と同じ新聞を買い、行方不明事件のところを読んでいた。
「ねえ一穂。K.Mってあんたにそっくりだっていうけど」
「外見はともかく、人格的な類似は非常に少ないと思われます。砕けた言い回しをすれば、近年まれに見るレベルのお人好しです」
「犬のバケモノに人が襲われてりゃ助けようとするやつの一人や二人いると思うけど……ましてこの街なんだから」
「犬って? ちょっと前に出た骨抜き犬か?」
美香はン、とうなずく。
それが自分たちの世界において極秘とされていたデビアンスだということは一旦忘れることにしたのだ。元々『異常』な存在ばかりがいるこの街のことだし、例の侵略の報せも今の状況を自然なものにしてくれているように思えた。
あるいはむしろ積極的にデビアンスに立ち向かっていかないと人々が疑心暗鬼に陥るかもしれない、という懸念もあった。あのシロナミという男の話から、『決闘の場』に移る前にアンジニティの住民を炙り出そうとした輩は既にいくらか出てしまっており、マスメディアを騒がせていた。それでも、他に明確な脅威がある間はそちらに目を向けていてくれるかもしれない。その後のことについてはまだ考えられていないが。
「行方不明者のプロフィールはばらばらです。
年齢については、下は小学生から上は八十代。職業については……強いて言えば、長時間残業、パワーハラスメント、顧客クレーム等の問題について取り上げられやすい業種がやや多く見受けられますが、決定的な傾向と言うにはデータが少なすぎるかと思われます」
「堅ッ苦しいな」
「要するに現実逃避の可能性アリか」
「おい?」
俊夫は一穂と美香の間で顔をきょろきょろさせる。
ふと、彼のポケットがブーッと震えた。スマートフォンを中から取り出し、受話器のボタンを押す。
「あ、もしもし? 母ちゃん? ……へ? 姉ちゃんが!?」
瞳をきゅっと縮め、俊夫はうん、うんと慌てた様子で相槌を打つ。
「わ、わかった。すぐ戻る。じゃ」
通話を終えるやいなや、俊夫はアイスの残りを棒から口でこそげ取って立ち上がった。
「悪い、帰るわ! 姉ちゃんが落ちた!」
「お、落ちたって!?」
「とにかく落ちたってンだ! 道路ン中へ! 目の前で!」
「それ、デビアンス! あたしらも行く!」
駆け出す俊夫の後を、美香、一穂が追った。
☆ ★ ☆ ★ ☆
K.Mはパステル・カラーの町並みをのんびりと歩いていた。
駆けずり回る獣頭の子どもたちや、ふわふわ浮かぶ雲の車の邪魔をしないよう気を使いながら、しかしあてもなく行く。
風は穏やかで、暑くも寒くもない。日が出ている限りはどこまでも歩いていけそうだったけれど、丘の上にベンチを見つけて腰掛けた。
遠くに、天高くそびえる城が見える。
やがて夜になれば、あそこに星が降ってくる。
傷つき震える魂が、星になってやってくる。外の世界からやってくる。
自分もそうしてここに来た。今夜も誰かが来るだろう。
そうして、この優しい世界は根を伸ばすのだ。